新宿の〈紀伊国屋書店本店〉に行った。広大なフロアーを目の当たりにして、奇妙なことに、「人間って、こんなに言葉が必要なんだなあ」と頭に思い浮かんだ。人類史上、最も本が発行され、手に入れやすい時代にうまれて、改めて本の重要性を問う。古代から人間は本を読む、編むという行為を繰り返してきた。なぜだろう。パピルス、粘土板、羊皮紙を経て、紙媒体はいまだにのこっている。

溢れるような本棚から、自分がどれを手に取って、何を得るか。それがどれほど大切なことなのか。やすきの読書から、読み解いてみよう。読書は、人間にどういう影響を与えるのだろう。なにをもたらすのだろう。

書物を選ぶこと

私が意識的に読書を始めたのは高校の頃だった。受験に失敗し、授業についていけなくなった。不思議なことに高校以降、あらゆる授業を受けても頭に入らなくなった。勉強しても意味がないじゃないか、という落胆から、心が学習を拒んでいたようだった。先生の言うことが耳に入らなくなった。困ったことに、その症状はずっと続いて、自動車教習でも職業訓練でも、点が取れなくなった。ふつうなら、聞いてわかることなのに、ふつうのことができなくなって、仕方なく自分で本を開き、独学でおぼえていくしかなくなった。やすきらしい運命とも言える。

だからだったのだろうか、突然に本を読みたいと思った。どこから来たものかわからなかったが、ふっと降ってきたように沸いてきた。その時は何を読んでいいかわからず、父に訊いてみた。すると、父は車を走らせ、私を東津山のブックセンターへ連れていった。その本屋が津山で1番大きい書店だった。

父の家系は読書一家だった。祖父も祖母もいつもなにかしら本を読んでいた。母に読書の習慣はなかった。こどもながらに、読書に耽る大人の姿をみて、読書はカッコいい、という風に思っていた。父は、ジャズのディスクガイド、推理小説を好んだ。「ミュージックマガジン」誌のバックナンバーやディスクガイドが、まるで教習本のように棚に積まれてもあった。並べる、というより、文字通り横に積まれてあった。

選んでもらった本は芥川龍之介の『羅生門』と川端康成の『雪国』の文庫本。今でも覚えている。どちらも当時の私にはつまらなくて、読むのを最初の数ページで諦めた。

最初の読書は失敗から始まった。学んだことは、本と自分に縁がある、ということ。本は、人の出会いに等しい。出会うタイミングもある。川端康成は、後になって『掌の小説』という短編集を薦めてもらって、かなり読み込んだ。30歳のころで、読書経験がかなり進み、川端の文章の端正さが少なからず理解できるようになった。読書初心者のやすきにとって、『雪国』はハードルが高いものだったろう。

やすきは、誰かに任せず、自分で読む書物を選び取ることにした。祖母の家に日本文学の全集があった。夏目漱石から手をつけることにした。もちろん、『猫』から。これがまたおもしろかった。『猫』はギャグもあるし、ポップで読みやすい。野球チームのくだりは、腹を抱えて笑った。『草枕』でも、主人公が理髪店の親父と江戸言葉でケンカをする場面にはユーモアがある。

漱石は、30になるころに、『草枕』を、夫人である夏目鏡子の『漱石の思い出』も同じ時期に読んだ。この二冊を読んだとき、夏目漱石という人物が立体的に見えたことを記憶している。ロンドン留学でのストレスが原因とされる漱石の神経症は、彼の人生につきまとった。もちろん、作家としても。『漱石の思い出』によると、漱石の神経症が特に悪化したのは人生に二度、そのうち一つの時期に書きあげたのが『草枕』だ。漱石は、突然に自分を絵描きだと思い込んで、日がな絵を描くようになったらしい。『草枕』の主人公像にも、それが現れている。草枕は、あらすじというより、精緻な一文一文の積み重ねが美しい。

『エヴァンゲリオン』の庵野秀明に近いものを感じた。凄惨なラストを迎えた旧劇場版を経て、『シン・エヴァンゲリオン』では、主人公のシンジの解放と成長を以て完結した。それは、安野モヨコと結婚し、孤独から解き放たれた、というのも遠因なのかもしれない。

人は成長し、変化する。作者とて例外ではない。長い人生の中で、人との出会い、出来事が作品にフィードバックされる。痛みも浄化され、優しさに変わるときがくる。読者である自分もおなじ。人生の地層が重なり、過去が長尺になってくると、振り返ったとき、そのときあった出来事の意味合いが変わってくる。すべての作者が、長い間、作品をつくり続けれるわけではないが、作者の人生が作品に反映されつづけるのであれば、変化の色合いが豊かになっていく。それが、時間が経過する、ということなのだろう。受け取る意味さえ変わるのだから。

病理に近いなにかを抱えて、その心理を癒すために作品になったとき、時に受け手の心に深く突き刺さることもある。クリエイターとしての表裏一体。ポップに楽しめた『猫』から、長い時間をかけて、漱石の人間像が浮き彫りになった。

そこから、谷崎潤一郎、坂口安吾と読み進めた。谷崎潤一郎も人生の節々で現れる作家。『刺青』という中編作品が刺さった。こちらものちに『春琴抄』を読んで、この人の蠍座的な世界観、ある男女の緊密な関係、オープンで、平等な関係を好むやすきとは、自分からはるか遠くにある世界。詩人の高村光太郎にも同じものを感じた。自分はこうはならないだろう、と思いつつも、強く惹かれて、自分とは違う世界を知り、自分の性質を知る。

全集に飽きて、現代の作家を読んでみたくなり、村上龍に走った。『インザミソスープ』や、『ヒュウガウイルス』、『オーディション』。『オーディション』は、主人公の男が息継ぎもせず何ページにもわたって喋るシーンは、村上龍独特のくどさがあって、よく記憶している。村上龍は、2026年に亡くなられた。高校生のやすきにとっては色濃い大人の世界が垣間見えて、新たな発見となった。

大学時代は哲学をかじろうとして、努力して『方法序説』を読み切った。読書ノートをつくり、父に見せたが、「そんなことをしても意味がない」と否定された。サルトルで挫折して、ヘッセにハマった。その後も、思想や哲学に憧れを持ちつつも、手をつけれないままでいる。17歳のやすきはノートに思想がほしいと書き続けたことがある。

20歳のころ、頭が回らなくなってしまって、本が読めなくなった時期があった。働くようになって、自己啓発書を読むようになった。仕事ができない原因を探したが、自己啓発書はあまり身にならないことに気づいた。長谷部誠の『心を整える』は、自分の失敗談を惜しげもなく書いていて、学びを書いていて、信用できると感じた。傲慢ではなかった。失敗の原因は自分の中にある。

何を得るかは自分が選ぶ

やすきが好きな作家、須賀敦子は、『血肉にならない読書は意味がない』と書いている。その意味を考えたことがある。よく、本を何冊読んだ?という質問があるが、そうではなくて、読書体験から何を引き出せたか。その深さが大事なのではないだろうか。例えば一冊しか読んでいなくとも、経験と一緒で、そこから学ぶことができれば、身になっているということ。

様々な本を読んだ。読書は、自分にいったい何をもたらしたのだろう?

昨夜、銀座の〈蔦屋書店〉にふと立ち寄った。Donuts.の参考にと、海外のアートブックや雑誌を立ち読みする。いままで読んでこなかった写真やファッション雑誌が、あまりにかっこよすぎて、立ち尽くした。ずっと読みたかった〈PROVOKE〉ものぞいた。銀座から赤坂見附まで歩いて、黒白の写真を撮りまくった。

自分は、この世界をたのしんだほうがいい、と思えた。いまだに本は、自分の掘り起こされていない部分を立ち上げてくれる。

一つ言えることは、読書は、自分の考え、世界観を形成するのに欠かせないものだった。人一人が、人生を削って編んだものは、なにかしら残る。どう受け止めるかは読み手次第だが、書き手の魂に触れることで、何かが生まれる。解釈は誤読、と何かで読んだが、その本と、自分の心の間に生まれる何か。それこそが大事なこと。

文学を読んで、私に何が産まれていたのか。津山のアートギャラリー、〈Port〉在籍時、ポール・オースターの本が置いてあって、いくつか読んだ。処女作である『孤独の発明』は、彼の父のことを書いた、衝撃的ともいえる作品だった。黒い染みがどこまでも広がっていくような、ざらついた質感の世界観。

著者と私の心の傷の角度が似ていたら、縁があったのかもしれない。やすきの場合は、父が後年にアルコール中毒になってしまい、同じような傷を持つ作家には惹かれる傾向にある。その人の世界に触れることは、自分の世界の奥行きを増すことに繋がる。オースターもヘッセも、かつて期待されたが、道を踏み外し、期待されなくなった人間を描くことがある。やすきも、もし期待通りのレールに乗っていたら、どうなっていたのだろうと考える。今よりは、自信があったのだろうか。いや、もしかすると、期待にそぐえなかったことで、むしろ自分の人生がやっと始まったのではないか。今ではそう言える。

現実世界でも、架空の世界でも、人の心に触れることには変わりはない。優れた本は自分の心のどこかを豊かにしている。見えない心の、どこを耕しているかわからない。何が芽生えてくるかわからない。だが、心を庭園として、色彩は豊かになっていく。ものごとや、人の心を深く理解する。

近年では、SNSで短いコンテンツが大量に溢れ、心や物事を解釈する機会を失している。AIの登場で、考えることも減ってしまうかもしれない。しかし、この文章をAIと共に振り返るとき、新たな光が差し込んできたような感覚があった。ひとつのことに時間をかけて、照らし合わせて、誠実に検討し続けていく、そのことが自己理解と、人生を拓くことにつながっていくのではないだろうか。

この記事は、旧Donuts.で書いた文章を基に再構成した。過去を編むことは、人生のこれからにつながる。

だれかが編んだものを読む。自分がまだ経験したことがないもの、いずれ経験するであるかもしれないこと。まだ自分の心の深い場所にあって、まだ取り出せていないもの。暗い水面に、そっと小石を落とす。水紋が広がって、静かに響きあっていることがわかる。言葉や写真、絵を媒介に、こころがよみがえり、そのときのそのひとが、よみがえる。心に触れたとき、人は変化する。

助け舟を、ずっとだれかが出しつづけているのだろう。困りごとがあったときに。感性が詰まったときに。本も、音楽も、映画も、絵も。すべての創作物が、表現がそうであるのかもしれない。