ルーナーフォークについて Donuts. 月あかり RUNĀ FOLK · ルーナーフォーク特集 月と孤独へ。 ヤングよ。年齢だけではなく、精神が若い君はルーナーフォークについて知っているだろうか。 一般には「ローナー・フォーク(loner folk)」と表記されるが、Donuts.ではラテン語で月を表すLunaもかけて、ルーナーフォークと呼ぶ。 現在、このシーンにおける情報は、日本のページにほとんど見当たらなかった。有志が、noteなどに書いているかもしれない。レコード屋の情報に限られる。そこで、Donuts.で取り扱うことにした。 ルーナーフォークは、ひとりの人間が自分のためにつくってしまった宅録のフォークだ。誰に聞かせる宛もなく。 主に60〜70年代、アメリカやヨーロッパを中心に、個人が自費でリリースしたプライベート・プレス盤の音源のことを指す。数百枚程度しかつくられていない。市場に出すというよりも、作り手が友人や教会、地元の店に配った程度で、コレクターが何十年か後に掘り起こしたのが典型的な例になる。 音の特徴は、アコースティック・ギター一本か、それに近い簡素な編成であること。録音は粗く、歌はうまいとは限らない。でも、内省的で、孤独や信仰の迷い、傷ついた心がむき出しのまま刻まれている。 孤独の友に 現代は、孤独で溢れている。SNSやZoomなど、インターネットを介したツールが発達しても、つながりは希薄になる。むしろ、そういった技術の発達によって、独りでいる力が弱まったようにも思える。 Hachisを経営していて、感じたことはさみしい人が多い、ということだ。話をしに来る。傾聴する。対話。地域のコミュニティが不足し、近所にどういった人がいるかさえしらない。毎朝、通勤路ですれ違う人でさえ。挨拶をしたら、おかしい人と思われてしまう。どうも異様な社会になっている。 Hachisで定期的に、谷戸会という集まりをしていた。だれか一品持ち寄りで、だれでも来れる。主催の人が別にいたが、その人はHachisにあまり通っているわけではなかった。谷戸会にくる、という人もけっこういた。この会は、やすきが津山の〈丹後山アパートメント〉を横須賀でカバーしたものだ。 国としても孤独は問題視されていて、2024年には孤独・孤立対策推進法が施行された。しかし、こういったくらしの中にあるものは、国では解決できないような気がする。もっと隣人同士でコミュニケーションをとれることはできないだろうか。当たり前にあったものが破壊されたのは、利益や効率を最善とする世の中の価値基準が原因にあるように思う。 哲学者ハンナ・アーレントによると、20世紀最大の危機は、自分自身とも他者とも、完全に繋がりを失った破滅的な状態である、とした。SNSで常に他者とつながっていたとしても、自己を見失っているから、誰とも話せない。また、社会の先行きも不安で、YouTubeなどで過激な、極度な断定をする意見がもてはやされる。 たとえばデイヴ・ビクスビーは、アパートの居間にマイクとレコーダーを持ち込んで録音をした。孤独な作業だったという。届く宛もない手紙をしたためるように。 NOW SPINNING Dave Bixby ― Drug Song『Ode to Quetzalcoatl』(1969) ↗ 精神分析家のウィニコットは、「独りでいられる能力」は、誰かがそばにいる中で独りでいる経験から育つ、と考えた。子どもは、母親が同じ部屋にいて、特に干渉してこないという状態の中で、安心して独りで遊ぶことを覚える。つまり、独りでいる力は、最初から独りで身につくものではない。レコード、あるいはサブスクで聴ける音源。それこそが「そばにいる誰か」になる。干渉もせず、答え合わせもしない。でも、同じ部屋で鳴っている。孤独のそばにいる。応えない機械に向かって歌われた歌が、今度は、独りでいる誰かのそばに座る。50年前に、聴く人がほとんどいないまま録音された音楽が、現代で再評価され、時代を越えて、孤独でつながっていく。 文 = Donuts.編集部 むすびつくこと ひゅーまん Jimi Tenor / Summer Of Synesthesia 『歩こう』 / SPARTA 『Changes In Air』/ Kara-Lis Coverdale HOME