湘南移住記 第233話 『ひゅごくんの料理』

ここ2、3日、やっとカレーが作れるようになった。そう実感した。

スパイスカレーをつくりはじめて3年。あるひとつの型ができるまで、歳月が必要だった。いまだに自分のスパイスカレーに満足できる点数はつけれないのだが、カレーらしくなってはきた。

スパイスカレーはブラックボックス的で、どういった入力に対しどういった出力が出るか、いまだ未解明である。

トマト、玉ねぎ、ヨーグルト、スパイス、米油のベースの部分の比率は決めている。軸をつくることで、店として味のブレを少なくする狙いだ。表現の幅を狭くするのではなく、むしろ枠を決めたほうが発想が生まれやすい。

平日営業を再開して、つくる分量がふえ、比率を変更したら、風味がもう一段階上がった感じがした。

毎日つくりつづけると、さすがに腕が上がってくる。

大事なことは、「これでいい」と答えを出さず、常に疑問を持って前に進むことだ。

そんなやすきのスパイスカレーライフに、ある出来事が起こった。

センス

ナイスリアクションを見せたきりさん

ゆうきくんがhatis AOからエデン横浜まで走った日。エデン横浜では並行して、もうひとつイベントが行われていた。

「主夫のメシバー」。ひゅごくんが〈ぼくとつキッチン〉として料理を振る舞っていた。

ひゅごくんは〈カルダモンモン〉で初めて出店し、以降も出店を重ね続け、その才能を遺憾なく発揮させていた。

〈カルダモンモン〉では、レモンとオレンジにカルダモンとチョコレートを合わせた一皿を出していた。軽妙洒脱な取り合わせに、やすきは舌を巻いた。

入場者全員に配布していて、会場の〈Yonger Than Yesterday〉の入口は魅惑的な芳香が立ち込めていた。イベントの印象を彩ってくれたことは間違いないだろう。

やすきはお手伝いをして、ひゅごくんの仕事を見ていた。横須賀中央駅地下のスーパーまで買い出しに行く途中、ひゅごくんと初めてしっかり話をした。食に対する価値観の話を聞いた。やすきの考えとマッチしていたし、人間的にも素晴らしい人だった。

料理の作り方も興味深かった。素材と素材の組み合わせを論理的に弾き出して、効果的なレシピを組む。まるでAIのように。

3月にもhatis AOに足を運んでくれた。やすきはその日、ジュニパーベリーという、ジンに使われるスパイスをカレーに使った。ひゅごくんは、ジュニパーベリーを「ラベンダーの香りがしますね」と言った。その感じ方はやすきになかった。

次にエデン横浜で会ったとき、三浦海岸で作られたみかん果汁をプレゼントした。自然な酸味があり、質の高い調味料だ。それをどういう風に調理するかが気になった。ひゅごくんの答えは、「刺身に合わすといいだろう」だった。考えもつかない発想だった。

味覚の感度が、やすきの一段上をいっている。そういう人の存在を何人か知っていた。その人たちには共通点がある。調理を仕事にしていないこと、鋭い感覚がゆえに繊細な心をもっていること。表裏一体。

ゆうきくんがhatisを出発したあと。Xでひゅごくんの料理を食べたきりさんのリアクション動画が回ってきた。見た瞬間、やすきのスパイスカレーを上回っているのでは、と直感があった。きりさんは数日前にhatis AOにきてくれてからだ。

エデン横浜に到着し、ゆうきくんの到着を待った。その間にジントニックを頼んだ。黒板にメニューが書かれていて、ひゅごくんの料理はほぼ売り切れていた。他の人が食べたいだろうから、注文は控えようかと考えていたところ、黒板に、スープカレーの中途半端なのこりがある、と書き直した。

やすきは一も二もなくそれを頼んだ。ひゅごくんのカレーか。どんなものだろう。隣にいたキタタクさんとシェアして食べることにした。

のこりだったので、スープカレーに、野菜は人参だけ。つくってる側の判断なので、一口で充分だった。

スプーンで口にした瞬間。

直感が正しかったことを認識する。

とても高い完成度だった。品があって、きちんと奥をついている。やすきの3年間を追い抜かれたようにも感じた。いや、3年かけてこのスープカレーの深度を量れるようになったのかもしれない。

ほかの料理も食べさせてもらったが、すべての料理が、的を得ていて、無駄がない。明確な狙いがあり、削ぎ落とされた設計。

特に芸術性があった料理が、蕪と金柑の和え物。2つ素材を口に含むと、柿のような甘味と食感がした。そこに程よい辛味がまざり、香りが出て、まるでデュシャンのコンセプチュアルアートを見ているかのようだ。

未知

〈ぼくとつキッチン〉のスープカレー

センス、というものをまざまざと見せつけられた。おそらく、ひゅごくんが料理の世界で働いていれば、一流の職場に身を置いていたはずだ。

やすきもセンスを持っている方だと、人を喜ばすことができると確信していたが、上には上がいるものだ。そういった存在はいままで出会ってきたので、やすきの調理の才能の幅はわかっていたつもりだったが。

なんか、スパイスカレーもういいかなあ、という気にもなった。自惚れていたのだと思う。諦めにも似た感情が、その時、心をちらっとよぎった。

だが、ゴールを迎えたゆうきくんとひゅごくんが隣り合ったのをみて、考え直した。

ゆうきくんの魂カレーも、初めからひゅごくんの完成度ではないが、凄まじいスピードで成長していた、カレーという点においては、ひゅごくんの上回る可能性を持っている。

いや、そもそも優劣をつけること自体がどうなのだろう。いろんな美味しさがあっていいはずで、山はひとつではない。各々の頂点を目指して歩いていくだけではないか。

洗練されたひゅごくんのスープカレー、ゆうきくんの魂カレーの熱、やすきのスパイスカレーの宇宙、どれも違う世界を持っている。

目から鱗が落ちると、めんどくせえなあという感情が湧き出た。

ひゅごくんはやすきに道を差し示してくれたのだ。感覚だけではなく、論理でブラックボックスを解明しなければならない。めんどくせえ作業をしなければならないと心の片隅に置いていたが、直面する場面だった。引き算を覚えなければいけない。

ひゅごくんが出していた料理は、家庭料理だった。それはつまり、奥さんのいわたPへの愛から生まれたものだ。いわたPへの愛が、ひゅごくんの料理を、創作を洗練させたのだろう。

スパイスカレーだけではなく、料理そのものを楽しもう。愛をもつ。

やすきには、ひゅごくんと違う角度の発想ができるはずだし、追究においては、まだまだ先があることを確信している。

やれやれ、と肩をすくめた。やっとカレーが作れるようになったと思ったら、さらに長い道が目の前に現れた。先は長い、深い、言葉にならないくらい。だが、たのしい。

最後に。ひゅごくんの料理を楽しみにしている人はすでにたくさんいる。あめさんやナツさんのポストにも期待が現れている。毎日取り組めばさらに進化していくだろうし、持ち前のセンスでたくさんの人を喜ばすことができるだろう。

いつか〈ぼくとつキッチン〉が店を構えて、辣腕を振るうことを、願ってやまない。