〈ヤマト食堂〉という名前の、昔ながらの海の家だった。長方形の店内に、白いテーブルがいくつか並べられている。入口にはコカ・コーラ製の冷蔵庫があった。工場にある機械のような大きさだ。店の奥には畳が敷かれたゴザ。広い。10畳分はあるだろうか。疲れた人がここで心地よく寝ていたのだろう。だが、今日は誰もいなかった。牛窓海岸も、年々と来訪者が減少しているらしい。
白地に赤枠の紙。メニューが書かれている。かき氷は300円、カレーライス、中華そば、焼きそばなど食事はすべて500円。近頃の物価高でさえものともしない価格設定だ。雰囲気といい値段といい、時間が昭和で止まっていて、令和だとは思えない。次元を越えて、タイムスリップしてしまったのだろうか。
やすき達と入れ違いで、関西から来たとおぼしき子供連れの席を立った。店の入り口付近で、店主のおばあちゃんと話している。おばあちゃんはタメ口だ。夫婦は距離感の詰め方に、少し戸惑っているようにも見えた。やすきはそれを見て少し悲しくなった。
おばあちゃんは優しさで話しているのだけど、現代の私たちとしてはいささか距離が近すぎる。昔は、それで良かった。お互いを信用して、コミュニケーションをとっていた。田舎にはそれが残っていて、都市の冷たさと相反している。かつてはタメ口が礼儀だったのだ。
三人はテーブルについて、交代でシャワーを浴びながら、各々メニューを注文した。待っている間、店員さん達と話をする。店員は3人。一人は店長らしきおばあちゃん。店先の椅子に座って、ずっと通りがかる人に話しかける係。もう一人、店長より少し若そうなおばあちゃん。注文が入って厨房に入ったから、料理を担当しているのだろう。最後に、壮年の女性。客であるやすき達と二人のおばあちゃんの間を取り持つようなムーブをしている。壮年の女性以外はタメ口だった。わかなちゃんは、親戚の人ではないかと推察していた。
うそかまことか
やすきは相手に態度を合わす習性を持っている。ここはタメ口が礼儀だろうと、「生まれは津山なんよ」と話した。すると、「津山からきたんか」と驚いていた。津山から牛窓までは、距離にして73.6キロもある。関東で言えば、東京都庁から横須賀市役所までの距離だ。こう書くと、なんだ、そこまで遠くないのか、と感じてしまうが、岡山では県北地域と県南の瀬戸内地域とは断絶に近い精神的距離がある。お互いに行き来しないから、異国のような印象を抱く。
おばあちゃんは、津山からよく来た、と迎え入れてくれたが、実際は三人とも横須賀から車で来ている。説明するのも面倒だから、今日は津山から来たという設定にした。「B`zの稲葉は、メジャーデビュー前に、牛窓の女の子と付き合っとたんよ」とおばあちゃんは話した。
B`zのボーカル、稲葉さんは津山出身だ。実家は化粧品屋さんで、母親が今でも店に立っており、B`zファンが遠くからわざわざ来訪している。やすきは津山のホテルで働いていたとき、お母さんを宴会場で遠目から見た。隣にいたのはお兄さんで、〈くらや〉という大きな和菓子屋を経営している。
岡山において、稲葉さんは津山の代名詞的存在だ。オダギリジョーも有名なのだが、おばあちゃんは知らないのだろう。
稲葉さんと牛窓の女性がメジャーデビュー前に付き合っていたのか。本当か嘘かわからない。私たちは、確かめようがない。真偽が定かでない情報を聞きながら、やすきはうどんを啜った。外に目を移すと、夏の青空と海が居座っている。濡れたズボンを駐車場で乾かしていた。
食事を済ませ、店をでる。「またきんちぇえ」と声をかけられた。靴と靴下も車に置いてきたので、裸足で歩く。アスファルトも砂浜も熱射線で温度が高く、踏んだら火傷そうな暑さだった。影踏みのように、足早に影に移動しながら、やっとの思いで店から車にたどり着いた。やすき達は、牛窓海岸を後にした。