音楽の旅⑥ 「神戸のクラブ、歴史、物語」

!!! Mondayは、驚くほど客が少なかった。客が私1人、なんて夜もざらにあった。平日の月曜、夜10:00にスタートして、数人のDJが回し、フリースタイルの時間があって、朝までDJ、というスタイル。当日、BBSにタイムテーブルが投稿される。みつどめさんという、スマートなスタッフさんがきまってバーカンとPAをやっていた。フリースタイルタイムに、たまにカホンを叩く。男前な人で、後で聞いたら、マンデーは無給かその日の売り上げでやっていたそうだ。

びっくりマンデーは、じょじょに、じょじょに人が増えていった。ヒップホップ好きでない人もくるようになって、後年はいいパーティーになっていった。フリースタイルも盛り上がって、色んなDJが回すようになった。私にとって、かなり大切なイベントになった。

あるとき、ピーズで友達になった女の子と、みつどめさんが付き合うことになった。その女の子とみつどめさんとで、センター街の向かって左の通りにあったタコス屋で食事をすることになった。会話の内容は覚えていないが、そのときはじめてみつどめさんと話をした気がする。その時も、スッと席を立って、会計を済ませてくれていた。なんてイケメンなんや。初めてできた彼女に、すごくモテると聞いた。みつどめさんは、『大人の男性』だった。私は大人にあんまなれてないな。押し付けずにスマートに気を遣うこと。

勢いがあった神戸の夜

私が行きだしたころの神戸は、勢いがあった。私からすると、だが。仲間によると、2000年あたりが1番おもしろかったらしい。ポートアイランドにもクラブがあったそうだ。そのあたりって、ITバブルもあったりして、日本にまだ余力があった頃だったんだと思う。2,000年代の後半あたりから、深刻な不況に見舞われて、勢いを失っていったのではないだろうか。

三ノ宮だけでもクラブがいくつかあって、加納町にピーズ、音屋、北野坂の象ビルにベベル、ドンキの下らへんにエレベーターを使って地下にあったトゥループ。陸橋があるあたりのキングスクロスは後にみんな使うようになった。大きいイベントの時はメリケンパーク近くにある上屋劇場、大バコカフェのラフレアが使われることもあった。レゲエは老舗のジャムダンや、元町にもザンジバというレゲエバーがあったはずだ。

ロックに目を移すと、チキンジョージ、高架下の109(だっけ?)、ヴァリット、スタークラブ。有名なライブハウスがいくつもある。ヒップホップのイベントがあったりした。

小さなDJ BARもあったはずだし、姫路にもいくつかクラブがあって、三木市や加古川の人たちが活動していた。三ノ宮だけでなく岡本にもクラブがあったと考えると、有機的にいくつものシーンがあったことに気づく。

ナイトクラブという側面だけでも、ひとつの『街』の在り方が見えた。商売をしてみると、街の表面がよく見えるが、クラブは、街の裏面。もちろん、もっと大人の世界やディープな場所もある。一つの地層と言い換えてもいい。そこで世界が成り立っていた。なぜなら、人が集まってお金が回っていたから。

18、19の頃の私は、三ノ宮の地理もよく理解してなくて、街そのものが巨大なダンジョンのようで楽しかった。あの時期の私は本当に暗かったが、すごい楽しい時期でもあった。両極端。

ハウスとかテクノの人たちはどこでやってたのかは知らない。神戸は小さいから、人とジャンルがカオスに混ざりあっていた。ベベルの前で、ビーボーイがギャル男を指して「スーパーサイヤ人みたいやな」とからかっていたのを見たことがある。

港町の小さな歴史、物語

ピーズでさえ、月曜にマンデーがあって、火曜日にレギュラーイベントでシンクロニシティというイベントがあった。行ったことはないが、ダンサーも来ていて、毎回パンパンだったらしい。Fat Jonがレベルクリークという女性ボーカルとのユニットで来日したこともあった。ファットジョンは好きだったが、金がなくて行けなかった。

平日のイベントがパンパンに入る、今では考えられないことだ。そういう時代の最後を、体験することができた。「今週末、どのイベントいく?」と神戸だけで選択肢があった。はっきり言って、楽しかった。

コロナ禍で、そういう状況はさらになくなった。大きい箱やイベントばかりが取り沙汰されるが、私が遊んでいた100人か200人の小箱も、ほとんどなくなってしまったのだろう。

ヒップホップだけでも、洋楽の新譜がかかるイケイケなクラブ、アングラはピーズ、という風に住み分けもあった。ただ、神戸も先輩方はみな仲良かったと思う。詳しくは知らないけど、大阪はハッキリ分かれている感じがあった。神戸はヒップホップはこうでなきゃいけない!という規範意識が薄く、さまざまな表現が生まれていった。

明石で10年以上つづいたレゲエバーが閉店したというニュースを見た。明石にもそんなシーンがあったのかと驚いた。シーンと大袈裟に言ってみなくても、店の歴史の中に、さまざまなドラマがある。神戸のクラブシーンは、音楽だけでなく服屋さんとか、いろんな人たちが折り重なって、歴史に残らないドラマを作り続けていた。私も物語の中にいた。体感していた。津山から来た陰キャで、格好もださくて、失礼なことばかりやって言ってたが、そんな私を受け入れてくれた懐の大きさが神戸にはあった。そこに馴染めなくて離れていった人もいたし、仕事や家庭で行けなくなった人もいる。私は幸運だった。地元の津山にはまっっっっったく馴染めなかったので、街に受け入れてもらったのは、初めての出来事だった。

神戸のイベントで遊んでいた人たちはみんなオシャレで、かっこよかった。右も左もわからなかった当時、ベベルで、恥ずかしさを振り払って、人いっぱいのフロアでわかわからん動きで踊ったことがある。あの時の一体感は、もうあまり体感できないものだ。

レコードの残響

元町を中心に、レコ屋もたくさんあった。神戸にまだジェットセットがあって、新譜が買えた。元町の高架下にはいくつかあって、中華街の中にもレコ屋があった。コンガとかエクアドルとか、国別にレコードが分かれていて熱かった。ハックルベリーというレコ屋にDJの人たちが買いに行ってると聞いて、足を運ぶようになった。

ジェットセットの思い出は、階段越しにかっこいい人とすれ違って、なんとなく見ていたら、「なに見てんねん」と怒られ、「べつにぃ」とニヤニヤしながら返した記憶がある。なんでそんなことをしたか今ではわからないが、気持ち悪い部分があったと自分でも思う。

ジェットセットで、DJ BAKUとTAVOOの『Vandalisum』という、グラフティの思想についての曲があった。トラックが好きで、アナログで探していて、ないですかと聞いたらRUMIとプライマルの『畜殺』というレコードを紹介された。あれもよく聴いてなあ。たしか、のーきーという友達にあげた。

私たちの世代はイベントに行っても、呑んでぺちゃくちゃ話すだけとか、社交場みたいになっていった。ディスコの時期とかすごかったと思うのだが、時代に勢いがあると、遊ぶ感覚も変わってくる。音楽は本来、その場にいる人をひとつにする力がある。その感覚はクラブとDJに学んだ。

ビックリマンデーで、土俵オリジンのDJ Wessunが、小田和正の『言葉にできない』のカバーをずっとかけ続けて、そこにいた数人が超あがった夜があった。なんかああいうのは記憶に残るんだよなあ。記憶に残ってる、残ってない夜も、私の人生を豊かにしてくれた。神戸という街と、音楽が織りなす物語によって。