嘘と虚栄 その2

こちらの記事は〈annon〉のミカさんに執筆していただきました。
前編の嘘と虚栄 その1
と併せてお読みください。

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前回の事件から5年後。
今から22年前の2002年の春休みのこと。

母方の祖母が急逝した。

普段、我慢強く寡黙な祖父が
「〇〇(私の母の名前)、母さんの具合が悪くて近々また検査入院するんだ。嫁は母さんのことを一切助けないから俺がずっと世話してたんだが…お前にも来て欲しい」と珍しく弱音を吐いた。その連絡を受け、早急に母と中学入学前の春休みに入ったばかりの私の二人で山形の実家へ帰った。

いつもの玄関を開け「ただいま」と母が言うと
確かにいつもより具合が悪そうだったけれど、思っていたよりは元気そうに見える祖母が『おかえり』と迎えてくれた。

私たちの滞在予定は約2週間で、滞在から1週間後の4月1日に山形県内の大きな病院に付き添う手筈だった。


その間母は祖母の身の回りの世話をした。
よく見てみると確かに綺麗好きで几帳面な二人からは想像し難いような、細かいところが汚れていたり、障子が破れていたりと手が回っていないのが見て取れた。


伯父夫婦とその孫三人(つまり私の従姉妹)と言った若い人間の手があるのにも関わらず。

なので、私と母とで祖父母がずっと気にしてたけど体力的に直せずにいた障子の張り替えや、床掃除をしつつ、必要な道具を買いにジャスコ(当時はまだイオンじゃなかった)へ行った際に駅弁フェアが開催されていたので、いくつか駅弁を祖父母へのお土産として購入し帰った。

祖母には確かバラちらし寿司か何かのお寿司系のものをあげたんだけど、それを食べた祖母が
「こんなに美味しいもの初めて食べたよ。みんなで食べると美味しいね、買ってきてくれてありがとうね」と言ったことが今も私は忘れられずにいる。


駅弁フェアなんていつでもやってるから、いつでも買ってきてあげるよ、と母は答えた。私もそれに同意した。それでおばあちゃんが喜んでくれるならいくらだってしたいと思った。

理由

一旦祖母の経歴を挟む。

祖母は昭和2年生まれで、多感な時期に戦争を経験している。でもとても聡明で数学と歴史が特に得意で、先生が問題を出すと瞬時に答えることができたそう。
なので「Mさん(祖母の旧姓)にはもうこれ以上教えられることがないよ」と先生に言われるほどだったらしい。


そんな祖母の本当の夢は教師になることだった。でも時代のせいで叶わなかった。その後結婚し、祖父の後妻として家に入ったのでかなり苦労をした。
それでも自分よりも他人、そして子供たちや家族を最優先にする誰よりも優しい人だった。

私は祖母以上に優しく清らかな人を未だに知らない。

話を戻すと駅弁を一緒に食べたその晩の深夜、祖母は急変した。


突然苦しみ出し、トイレに行きたいが行けない、胸が痛いと茶の間でうずくまった。
祖父母宅は当時まだ汲み取り式のトイレが外にあり、用を足す時は一旦外に出なければならなかった。


でも祖母はそこまで歩けないし動けなかった。
伯父はおろおろするばかりで、痺れを切らした母が
「2階にあなたたちが使ってるポータブルトイレがあるでしょ!!!」と叫んだ。

嫁は渋ったが、事は一刻を争う状態なのは流石に私でも分かった。そして伯父がトイレを2階から祖母のいる茶の間に運んだ。
その間に救急車を母が手配したところまでは覚えている。

その先は私の記憶が一旦ぷつりと完全に途切れているので正直自信がない。

次に記憶が再開するのは夜が明けて4月1日。
本来であれば祖母が病院に入院する予定だった日の朝のこと。


私と従姉妹たち、つまり子供たち(祖父母から見たら孫たち)は伯父嫁の実家に預けられた。
「おばあちゃんが心配だから病院に行きたい」と言ったがそれは却下された。


そしてその日の夕方一度だけ祖母との面会が許された。


もう祖母は話せる状態じゃなかった。


心臓の弁が効かなくなり、酸素を身体に巡らすことができないので、鼻と口に酸素吸入器を付けられて目を閉じていた。

ずっと祖母に付き添っていた母は
「お前たちに見せるにはショックが大きいだろうから、あとは家で待ちなさい」と告げ、私たちを伯父嫁実家に帰した。


その後もよく覚えていない。ただただ『おばあちゃんにまた会いたい』それだけを願っていた気がする。

翌4月2日の朝、伯父嫁実家の大人から
「おばあちゃん家に帰ってくるって」と伝えられた。
その時の私は馬鹿だから『おばあちゃん良くなったんだ!会いたかった、ずっと会いたかった』と喜んだ。

でも帰宅して再会した祖母は顔に白い布がかかっていた。


息を引き取った後だった。


それならそうと、『「帰ってくる」なんて言い回ししないでよ、確かに帰ってきてくれたけれど、意味が全然違う!!』と号泣した。完全なる不意打ちだった。

その後私は泣き疲れてそのまま夜まで寝ていたらしい。


次目を覚ましたときは納棺も済んでいた。
『なぜ起こしてくれなかったの?!私だって大事なおばあちゃんとの最期の一つ一つに立ち会いたかったのに』と母を罵った。

母は「昔から子供には納棺の瞬間をあまり見せるものではないと言われてるからよ」と淡々と告げた。


母はおろおろするばかりの伯父に見切りを付け、祖父と二人で祖母の葬儀の手続きを遂行すると覚悟を決めていたようだった。涙一つ流せなかったのはそういうことなのだろうと、その後少し時間が経ってから理解した。

そして横浜から私の父、長姉が訃報を聞き山形へ来た。


次姉も行こうとしたが当時の職場で「新年度なのに今抜けるの?あり得ない、行かせない」と言われ


(いや、ブラックすぎるだろ。それが原因でその園を後に姉は退職する)


ついぞ四十九日法要の納骨まで祖母と会えなかった。


なので我が家からは両親と長姉と私の四人が参列することになった。父は外面だけは異常に良いので、親族へなんか媚び売ってたが気持ち悪いし、祖母のことだけを祈っていたかったので視界に入れず無いものとして扱った。

ただ通夜や告別式で子供にできることはほぼなく、基本的には祖父母宅の従姉妹の部屋で待機させられた。


その中で従姉妹1が「お葬式でばあちゃんに手紙を書いて読み上げたい」と言い出した。

それ自体は別に良いんじゃないと思った。問題はその動機だった。
大人がそれを了承したあと、まだ従姉妹部屋で待機中、祖母への手紙を書きながら従姉妹1は『これを読んだらみんな泣くだろうねwそして良いお孫さんを持ってと言うだろうね』と言った。

その場にいた私と長姉は耳を疑った。
『こいつはおばあちゃんのためではなく、おばあちゃんの死を利用して自分を「良い子」により仕立て上げようとしてるのか』と。

私は祖母の死を静かに悼みたかった。
もう話すことは叶わないけれど、間違いなく最期のお別れの場面になるから。


なのに自分の虚栄心のことしか考えてねえのかと、その瞬間元々あまり好きではなかったが、完全に嫌いになった。


元来私は生き物の命を踏み躙るような人間は大嫌いなので彼女の行為は私の逆鱗に触れた。

その後、集落の中に唯一あるお寺で告別式を執り行った。


予定通り従姉妹1は例の手紙を読んだ。
彼女の本性を知らない人たちは「なんておばあちゃん想いな良い子なの」と参列者の涙を誘った。
本心を知ってしまった私と長姉だけが、その手紙を読む従姉妹1を憎悪の目で終始睨み続けていた。許せなかった。

ちなみに数年後、従姉妹1は銀行員になるのだが、その際勝手に祖父の預金口座を見て「おじいちゃん思ってるよりお金持ってるんだね…」と言って遺産相続をややこしくさせた一員なので、本当に嫌いだ。生きて二度と私の視界に入ってこないでくれと言いたい。

そして火葬が済み、それぞれの都合を鑑み初七日法要も済ませ、私も中学の入学式を控えているので我が家は横浜へ帰ることになった。

山形の家を出るとき祖父や祖父の兄弟(つまり大叔母さんや大叔父さん)が見送ってくれた。
そしてみんなが見ている中で突然父が私の頭を撫で「お前は本当に可愛いなぁ」と抜かした。

触られただけでゾッとしたけれど、従姉妹1とコイツも同じ性質かと吐き気がした。というかそれを言ったときの猫撫で声が気持ち悪すぎて、トイレで吐いた。


普段家では私たちに対して「離婚しても慰謝料は一円も払わねえ」や、私が学校に行けずに寝込んだ日には「何の役にも立たない、お前なんか死ねばいい」と吐き捨てた同じ口でそれを言うかと真底軽蔑した。


言動に一貫性がないというか、二枚舌というか、ある意味外面だけを保つ人間という意味ではわかりやすいのかもしれないが。

また、横浜へ帰るという印象的なシーンで良き父を演じるためにそれを言ったであろうこと、若干ロリコンの気を感じていたのでより一層気持ち悪かったからこそ受け入れたくなかった。

だから落ち込んでいるとふとした瞬間に『私の肉体および遺伝情報はあいつの半分で出来ているのか』が脳裏をよぎり、身体を二等分に掻っ捌いて切り捨てたくなる。

そういうことがいろいろあった。
祖母の死を厳かに悼むことも、ただただ汚れなき祈りを捧げたいと言う思いすらも邪魔されて踏み躙られて4月4日、横浜に帰ってきた。

これが私が嘘と虚栄が大嫌いな理由。

その年は普段より寒かったから、いつもならもうとっくに散っているはずの横浜のソメイヨシノが満開だった。
その青空とソメイヨシノだけが美しかった。
それはまるで清らかな心を最期まで持ち続けた祖母に似ていた。