あなたは、アフリカに哲学をがあると知っていただろうか。やすきは、この本を手に取るまで知らなかった。哲学は西洋のもので、もっと言うと、ヨーロッパが中心にあると思い込んでいた。だが、世界中に哲学はある。モザンビークにも、アルゼンチンにも、もちろん、日本にも。だけれども、日本の西田幾多郎のことを知る海外の人は少ないだろう。それはちょうど、USのラッパーがカウボーイビバップのことは知っていても、CharluやWatosonのことは知らないように。

アフリカとヨーロッパは支配する側、される側の関係にあった。15世紀から大航海時代がはじまり、ヨーロッパ諸国がアフリカへ大西洋貿易を大規模に展開する。まず、スペインとポルトガルが先鞭を切る。スペインがコロンブスがアメリカ、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰周りでインドに到達すると、それぞれの航路での支配を強めていく。金、象牙、胡椒の取引が進む一方、アフリカ人を奴隷として商品とみなし、貿易がはじまった。アメリカのプランテーションなど、火急に労働力が必要だったからだ。奴隷貿易は16世紀から急増し、18世紀には286万8000人の奴隷が売買される。日本の大阪市がまるまる失われたようなものだ。多くの人が失われ、農耕をはじめとするアフリカの生産力は激減した。

さらに、マンチェスターの布やオランダのビーズなど安価なヨーロッパ製品が大量に流入し、地元の職人は仕事を失った。結果、アフリカ各地の熟練技術や伝統文化が徐々に破壊されていくことになる。

トーゴ、ガーナ、アンゴラ、コンゴ、タンザニアなど、当時の貿易構造で不利益を被った国々は、現在も経済的に弱い立場に置かれがちだ。タンザニアはコーヒー産地として日本とも深く関わっている。私たちが比較的安くコーヒーを飲める背景には、こうした歴史的構造がある。ある種の搾取関係と言えるかもしれない。

植民地化

ヨーロッパの列強各国は、アフリカの植民地化をすすめる。暴力と利益による奴隷貿易を正当化するために、言語、宗教、制度などを植え付けた。文明化という名目の基に。日本も明治維新によって鎖国を解き、文明開化を推し進めた構造と似ている。明治時代、鹿鳴館でダンスパーティーなど行われたが、当時の日本人が着慣れない燕尾服やドレスを着て、ヨーロッパの慣習に自らを当てはめていく様を、ヨーロッパ人が滑稽だと見て、風刺画を残していた。

ヒップホップに限らず、今のファッションでも、西海岸のスケートカルチャーに影響を与えたブランドが人気だったりとか、アメリカを真似ようとしている。それは、相手側の国からすると、奇妙に映らないか、と思うときがある。実際に、日本のラッパーがアメリカの最新のフロウを取り入れてラップしたとき、「文化の盗用だ」という批判があった。

ヨーロッパが物質的な支配だけでなく、精神的な支配を必要とした時、重要な役割を果たしたのが哲学だった。
啓蒙思想の時代、西洋の哲学者たちは人種を階層化し、アフリカの人々を劣った存在として位置づけることで、植民地主義を「正当化」した。

やすきは、カントやヘーゲルまでもが人種差別的な言説を残していたことを知り、大きなショックを受けた。両者は哲学の巨人であり、功績は計り知れない。しかし同時に、思想の裏側には暗い歴史があった。

そもぞも、多種多様な民族が溢れていたヨーロッパは、古代ギリシアの昔から、自国以外の民族を排外扱いをしてきた。アリストテレスでさえ、「自然的奴隷」を著作にて記してきた。

以下に、西洋哲学におけるアフリカ人差別の歴史をまとめる。

西洋哲学におけるアフリカ人蔑視の歴史

時代・哲学者主な議論・蔑視の内容
古代ギリシア
アリストテレス(紀元前384–322)
『政治学』で「自然的奴隷」を提示。異民族(アフリカ系含む)を支配されるべき存在として序列化。
中世ヨーロッパ
アウグスティヌス(354–430)
奴隷制を神学的に容認。異民族は霊的に未熟とされることがある。
中世ヨーロッパ
トマス・アクィナス(1225–1274)
理性は普遍的とするが、文明の外部にある異民族を暗に「未発達」と位置付け。
近世・啓蒙期
デイヴィッド・ヒューム(1711–1776)
『Of National Characters』で黒人は白人より知性・道徳に劣ると記述。
近世・啓蒙期
ヴォルテール(1694–1778)
アフリカ人に否定的な描写を残す。植民地主義を正当化する思想の背景。
19世紀
イマヌエル・カント(1724–1804)
『人類学講義』で人種を序列化。アフリカ人を最下位に位置付け。
19世紀
ヘーゲル(1770–1831)
『歴史哲学講義』でアフリカを「歴史の外部」とし、西洋中心史観を支える。
20世紀
フランツ・ファノン(1925–1961)
植民地主義下の人種差別を精神分析的に批判。西洋中心主義を問い直す。
20世紀
アマルティア・セン、アチュベ・エメセイエ
アフリカ哲学・黒人思想の視点で、西洋哲学の人種差別的前提を再評価。

蔑視から近代の批判まで

もちろん、現代にいたるまで、ずっと黒人が蔑視されてきたわけではない。18世紀~19世紀初頭にかけて、ヨーロッパにて黒人の人権を見直す動きがあった。宗教側からの反対があった。キリスト教福音派やクエーカー教徒などが中心となり、1787年にイギリス反奴隷協会を設立。アメリカでも奴隷制が廃止。

制度としてして廃止されても、暮らしの中での実際は違った。アメリカでは黒人に対する差別が依然として残っていた。そこに、デュボイスが現れた。デュボイスは黒人ではじめて博士号を取得した指導者である。彼は汎アフリカ運動というムーブメントを巻き起こした。

その後も、1920~30年代にかけてデュボイス、ヒューズなどが中心となってハーレムルネッサンスという運動が起こる。音楽、芸術を中心として村上春樹が敬愛するフィッツジェラルドが『グレイト・ギャツビー』で描いた、華やかなジャズの時代。ルイ・アームストロングなど、ジャズの旗手たちが大恐慌によって終焉するまで続いた。

やすきがこの本に興味があったのは、ジャズなど音楽にもページが割かれていたからだ。ボブ・マーリーをはじめ、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエを信仰するラスタファリズムにも言及している。哲学書なのに音楽。そのバランスが気に入った。かつてカポエイラが禁止されていた運動をごめかすためにできた格闘技であったように、音楽もまた黒人にとってのカウンターだったのである。


①アリストテレス(古代)

  • 古代ギリシャの哲学者で、「自然的奴隷」という概念を唱えた。
  • 一部の人間は理性が弱く、支配されるべき存在と定義づけた。
  • この思想はヨーロッパの奴隷制正当化に「哲学的根拠」を与えた。
  • 近代まで続く「人種階層化」の深層に影響を及ぼした。

② イマヌエル・カント(18世紀)

  • 理性を普遍とする啓蒙哲学者だが、人種論では白人優位を明確に主張した。
  • アフリカ人を「劣った民族」と位置づけ、植民地主義を哲学的に補強した。
  • 後世の科学的人種主義の成立に強い影響を与えた。
  • 啓蒙の光の裏側に、体系化された人種差別が存在した例。

③ クエーカー教徒(17〜18世紀/象徴人物ジョン・ウールマン)

  • キリスト教的平等観から、欧米で最初期に奴隷制全般を否定した宗教共同体。
  • 奴隷を所有する信者を説得し、植民地社会で反奴隷文書を大量に発信した。
  • 「良心に基づく反奴隷運動」という新しい道を切り開いた。
  • 19世紀の英米・オランダの奴隷制度廃止運動の思想的基盤になった。

④ W.E.B. デュボイス(20世紀)

  • 初期アフリカ系アメリカ人知識人で、「二重の意識」を提唱した社会学者。
  • 奴隷制後の人種差別を科学的に分析し、黒人の主体性回復を訴えた。
  • 反植民地主義・アフリカ解放運動にも影響を与えた。
  • 白人中心の近代思想への批判的転換点を象徴する人物。

やすきは、横須賀にきてはじめて黒人と話した。ジャズやヒップホップ、黒人音楽が好きだったのに、彼らのルーツまでは知らなった。黒人でなくとも、私たち黄色人種に対する差別はまだ根深い。今、ワールドカップで話題のサッカーでも、欧州の強豪クラブで活躍する日本人選手たちも、各国で差別を受けた、と発言している。

あるいは、例えばフランス代表で、世界一のサッカークラブのひとつレアル・マドリードでプレイするムバッペも、カメルーンとナイジェリアにルーツがある。

横須賀は人種的にも多様な街で、それは津山では感じることはなかった。ただ、音楽にしろ、スポーツにしろ、こういった黒人文化の影響は強い、星野源もSuchmosもWONKもNulbarichも、黒人音楽の良質な栄養分を吸収して豊かな音楽を生成してきた。あるいは生産国として、珈琲で日本は関与している。

著者は、「思想を覆すのが哲学の役目」だと書いている。アフリカの哲学は、黒人差別を批判するためにも生まれた。体制に対し、哲学が必要だったのだ。世界の各国に、それぞれのアイデンティティのためにヒップホップがあるように。モザンビークにも、アルゼンチンにも、日本にもヒップホップはある。現代にも依然として残る差別、私たちも関与しているこの状況を、歴史を、まずは知ることから。