湘南移住記 第九十三話 「蕪木」

このところ、電話で女将が寂しそうな雰囲気を出していた。すこし津山に帰ることにした。9月に帰る予定だったが、いろいろあって10月になった。おかげで物件の話は進んだ。天秤座での水星逆行期間だったので、ちょうどよかった。

物件も、店舗用の審査を出し直したので、待ち時間でもある。1週間ほど帰ることにした。

三浦市のマグロ屋のバイトは、一旦切り上げた。来週は休ませてもらい、再来週からは、日曜だけ出勤。横須賀の仕事も見つけたいし、10月は三浦から横須賀に徐々に生活の場を移していくことにした。

横須賀かあ。津山から移る前は、横須賀はないかな、と考えていたが、わからないものだ。ヤンキーのイメージだったが、綺麗で落ち着いている。一通りの施設も揃ってるし、他の街へのアクセスもいい。

京急で横浜まで30分、都心まで1時間ほど。つまり、東京へも働きに行くことができる。女将は東京で働きに行きたそうなので、その点はよかった。

東京紀行

深夜バスで帰ることにした。飛行機や新幹線の方が楽だが、深夜バスなら片道の料金で往復できる。その浮いたお金で、東京の〈蕪木〉さんに勉強に行くことにした。

〈蕪木〉さんは、よくBrutusにも掲載されている東京の名店。本も出されている。雑誌に掲載されている写真からは、美しい佇まいが見てとれた。

行ってみて、吸収しよう。新しい店をまた起ちあげるし、新しい学びを手に入れたい。

京急に乗って三浦から横須賀中央駅へ。働いたお金で、欲しかった古着を買った。ロングシャツが欲しかったのだが、ちょうどいい縞々のシャツがあったので、それにした。

再び電車で東京へ。乗り物酔いをしたので横浜で降りた。横浜駅前のブルーボトルコーヒーでスリーアフリカブレンドを飲んだ。東京や神奈川の珈琲屋さんを周ったので、さすがに美味しくは感じなくなってしまったが、ブルーボトルの世界観は好きだ。左腕にタトゥーが入っている外国人女性がドリップしてくれた。照れながらサーブしてくれて、その感じもいい。

横浜でJRに乗り換えて、秋葉原を目指した。eイヤホンという、イヤホン専門店に行きたかったからだ。

だが、秋葉原駅には止まらなかったので、上野駅で降りた。上野駅に用はなかったが、せっかくなので、上野駅からの道のりを動画に収める。

Donutsという、メディアをはじめる。これまでに日の当たらなかった場所や人にスポットを当てる。手始めに4kで街の映像を撮ることにした。

上野は宝石商が多かった。平日の昼間から、熟年の女性が宝石を売りに来ていた。コロナで生活に困っているお金持ちだろうか。

秋葉原まで辿り着き、eイヤホンへ。店員の人がお洒落な男性ばかりで、アキバのイメージとは違っていた。

イヤホン試聴

2階にインナーイヤフォンコーナーがあった。なぜインナーイヤフォンかと言うと、カナル型は耳が痛くなるから。ずっと聴いてみたかった、水月雨(ムーンドロップ)や、AstrotecのLyraシリーズがあった。試聴用プラグを店員に借りて、試聴してみる。だが、どうもしっかりこない。50,000円するイヤフォンも試したが、私にはハマらなかった。低音がきめ細かく鳴っていて、ベースの息遣いが聴こえてくるようだったが、偏っているようにも感じた。

この辺りでも価格帯としてはそこまで高くはないようだが、どうもなあという気分になった。

結局、しっくりきたのはOstrayのKC0Aと、以前中古で使っていたin-air。どちらも高音に艶があり、好きなバランスだった。スピーカーにしても、かなり好みによるので、価格が高ければ高いほどいいといういいわけではないことがわかった。実際に聴いて試すのが1番いい。in-airにした。耳元で鳴るスピーカー。これで聴くと、新しい体験になる。

秋葉原から、新御徒町へ。このあたりは、住宅街というか、下町だった。昔ながらの東京というやつだろうか。

端正

30分は歩いただろうか。〈蕪木〉さんに着いた。店構えからして、質感が違っていた。簡素だが、品がある。鉄の正方形の看板に、花が飾ってある。一見しただけでは、珈琲店とはわからない。

店内は二階建てだった。一階は、焙煎機が設置されていて、2階が客室のようだった。洋館のような扉が、空気感をさらに醸造させている。

壁がとても気になった。ペンキで塗ったにしては、独特の質感をもっている。この壁に、不思議な縁があった。あとで蕪木に行ったことをInstagramにアップしてわかったことだが、「ウレシイカベ」という、珪藻土のプロジェクトをしている方と津山で知り合った。蕪木の壁はどうもそのウレシイカベが手がけているらしい。

点と点が、思わぬところでつながる。

2階の1人席に通された。こじんまりしたテーブルに、小さく花が飾ってある。くたびれた紙に書いてあるメニューに、温かさがあった。数種のブレンドと、シングルオリジン。珈琲に合わせたクラフトチョコレート。カルバドスなどお酒もあった。お酒とチョコレートボンボンを合わすように勧めているのが、洒落ていた。

「かもしか」という、変わった名前の、深煎りのブレンドと、それに合わせたチョコレートを頼んだ。ドリップはすべてネルだった。

端正な珈琲茶碗に、丁寧に淹れられた珈琲が運ばれてきた。店も珈琲も端正だが、緊張感はない。カウンター奥も整えられていた。無駄がなく、美しい。神戸の〈六珈〉さんと同じようなやかんが使われていた。

珈琲も店とおなじく、洗練された味だった。ネルのようなざわりとした質感ではなく、滑らかで、苦味もそこまでない。苦味の奥に、ブルーベリーのような香りがスッと顔をだし、引いてゆく。苦味からスムースに移行してゆく香りの置き方が上品で、格を感じられた。

すべてが奥ゆかしく、必要以上に主張しない。店主さんの生き方が珈琲にも店の佇まいに出ていた。会計の時、1階に店主らしき男性がいたので、「美味しかったです」と伝えた。店主さんは、ハッとしたように「ありがとうございます」と応えてくれた。この言葉でさえ、今の私にはおこがましいように思う。

津山に帰ると、家にあったBrutusに蕪木のご主人とテキスタイルのデザイナーの対談があった。ご主人が若かりし時、通っていた薄暗い喫茶店に救われた経緯があり、この店を始めたそうだ。

生きる姿勢

蕪木を振り返ると、自分があまりに焦っているように感じた。焦っているということは、自分が自分を受け入れてないということ。

呼吸を正し、目の前のことに集中し、日々を懇切丁寧に生きていくことに欠けていたのではないか。蕪木の端正さに、今の自分を思い知った。しっかり自分を受け入れて、腹を据え、日々を楽しんでいこう。