湘南移住記 第252話 『Departure』

朝7時、うみかぜ公園。ベンチに腰掛け、海の向こうの猿島を眺めている。波の音が辺りに響いて、朝の光が水面にきらめいていた。

3月だというのに、夏日となった昨日とはうって変わって、今日は中庸な曇りが、のっぺらぼうのように伸びている。三春町の〈中井パン店〉のポテトサラダパンと、あんこの入った揚げパンを朝食に。10メートル先には、10代とおぼしき4人の男性たちが釣りをしていた。内1人は赤いパーカーを着て目立っていた。春休みなのだろうか。

横須賀の海は、米海軍基地があるためか、船が行き交っている。中型、大型の軍艦。馬堀海岸の手前には、漁師の船もある。横須賀の前に住んだ三崎にも、白い漁船がいくつもあった。盆地に育ったやすきは、神奈川に来て、船を見るようになった。それまでは船を見る機会はほとんどなかったといっていい。

夏日の昨日。うたのさんが東京から横須賀のhatisまで来てくれた。別れの挨拶に。うたのさんは来月、関東から関西へ越すという。

しいねさんが寄せ書きと花束を用意してくれて、サプライズで渡す手筈になった。うたのさんは、ミカさんと一緒に店に来て、食事をした。後からゆうきくんも来た。やすきは、個人的に書いた手紙と、本を渡した。うたのさんも、お礼にお菓子と手紙をくれた。授与式のように、やすきとミカさんに気持ちを伝えてくれて、うたのさんの優しさと誠実さが滲み出ていた。なんだか、感動的な場面だった。

同席になったお客さんは、横須賀から京都に移住したご夫婦だった。2年前、安浦に住んでいて、1度だけhatisに来てくれたという。東京に来る用事があり、横須賀を訪れ、hatisを選んでくれたという。嬉しかった。お二人とも関西の方だった。

やすきが横須賀に来て4年。よそから横須賀に移住した人もいれば、出て行って人たちもいる。エマさんも関西に帰ってしまったし、ソムリエのガーミーも川崎に家を建てた。中には、三浦の方と結婚して、家を買おうかというコーキみたいな奴もいる。

ダークエナジーからの脱出

ここ二週間、もう一段階、店の来客数が落ちた。いい日もあるのだが、帳簿を見ると、全体的に少ない。数字としても厳しく、寂しさが募る。

誰もこないhatisで途方に暮れていた。店を開いて3年、地域の関わりを作ろうと動いたけど、結局はこんなものだったのだろうか。横須賀に根づいた、と勘違いをしていた。夜8時に店を閉めて、上町のスパイス屋に買い出しに行くと、賑わっているお店さんを見る。燈に笑顔が集まっているのを、横目に通りすぎた。

自分の努力不足もあるのだけれど、どうも来客の落ち方が尋常ではない。土日でランチが1組だけと、それは流石にhatisでも異常な出来事だった。原因がわからない。ところが、どうも原因がわかった日があった。

ある夜。常連のクリスがやってきた。「いつもの」を注文してくれて、スパイスカレーセットと、クリス専用の深蒸し緑茶を出す。ところが、クリスはなぜか苦虫を潰した顔を浮かべていた。前回きてくれた時も、友人を連れてきてくれたが、お茶も飲まずに出て行った。怒らせてしまったのだろうか。理由を聞くと、hatisによくない空気が流れているということだった。

厨房の方から、男性の声が聞こえていたらしい。やすきは黙って調理していたのに。どういうことかというと、よくない霊が漂っているということだった。クリスは特別な力の持ち主で、見えない世界を感じ取ることができる。以前、やすきのおばあちゃんが見守ってくれていることを教えてくれた時、嬉しさのあまり涙した。

ダークエナジーが、hatisに蔓延しているという。思い当たる節はあった。店は忙しくないし、バイトも入れてないのに、何故だか体がだるい。気力も沸かない。不思議だった。ダークエナジーは、クリスの力で取り去ってもらって、解決した。やすきはクリスに感謝した。

その翌日がうたのさんの日だったので、効果があったことは目に見えた。

うたのさんとミカさんが去った夜。ひさしぶりにきゅうさんが来てくれた。きゅうさんは、うたのさん達と五分だけ合流した後、hatisに寄ってくれた。うたのさんのことを話していると、うたのさんと出会って一年も経っていないことが判明した。ずっと一緒にいたような気がしていた。時間を超越した濃密さがあった。

きゅうさんと話しているうち、ああ、やすきも繋がりをつくれているじゃないか、と思い直した。横須賀のみならず、東京から、川崎から、藤沢から、岐阜から、京都から、わざわざ尋ねて来てくれる人たちがいる。hatisの陽だまりで話して、豊かなコミュニティを築けたではないか。

地域に無理に溶けこもうとせず、自分のペースでやっていけばいい。やすきは繊細なので、大事にしてもらえない人たちとは関われないから、広げようとしすぎない。関わってくれる人たちを大切にして、関係の地盤を育てていけばいいのではないか。店として選ばれる立場だが、やすきもやすきで関わりを選んでいく必要がある。もっと自分を見る。

Xのアカウントを削除して、復活させたが、みんなの動きを必要以上に摂取しなくなった。代わりにできた時間で、朝の散歩や、読書、文章やリリックを書く、店の中に集中する、夜にランニングする、など習慣をつけていった。頭の中がすっきりし。年始からあまり休まずバイトと店の往復だったが、忙しい、というのもあまりよくない。

オーバーシンキングはよくないよ、とクリスが諭してくれた。情報量が過剰になっていて、意識が集中できていないことに気づく。

朝9時前。一隻の船が猿島の向こうへ、見えなくなっていった。どこかに旅立ったのだ。うたのさんも、来月には故郷の神戸へ旅立つ。やすきは、ベンチを立った。過去の自分から、旅立つ時だった。