Dragon Ash、根を張るもの

音楽を振り返るたび、Dragon Ashがにょきっと、銭湯の煙突のように飛び出してくる。やすきの音楽観の人生の根元にあり、地面の下に幾重もの根を張り巡らせているからだ。

やすきの音楽の原体験は、亡き父が聴いていたジャズにあった。いつもテレビを観ている横で、セシル・テイラーや、フリージャズをレコードで流していて、うるさい、と感じていた。ビールを片手にジャズのディスクガイドを、哲学書のように読んで、ジャズの難解さを楽しんでいて、こう言っていた。音楽を聴くのは苦しい、と。

次に、耳に入ってきたのは小学生の頃に遊んだスーパーファミコンのゲームミュージック。あるいは、アニメの劇伴。副次に流れていたもので、作為的に聴いているわけではなかった。長い年月をかけ削られた鍾乳洞のように、じわりじわりと、無意識下には、影響していただろうけど。大人になると、クロノ・トリガーを手掛けた光田康典さんの音楽が好きだということがわかった。

小学生は、自分からCDを買うことはなかった。当時は短冊のような小さいCDシングルが売られていた。みんな、流行の音楽を買っていたに違いない。今もそうなのだが、やすきは芸能に疎く、流行している音楽を知らない自分に、コンプレックスを持っていた。小学生高学年ともなると、みんなテレビから情報と文化を吸収し、共有し始める。やすきはその輪に入れなかった。音楽を聴いていたみんなが、すこしだけ大人に感じられた。

そんな子供時代を過ごしたあと、中学生二年生になり、自我が芽生え始めたころ、ある事件が起きた。

出会いまで

弟が、隣町の町内会の祭りで、コンポを景品として当てた。弟は喜び、父と母が家に持って帰ってきた。やすきはこともあろうか、それを奪って、勝手に自分の部屋に置いた。まるでジャイアンのように、自分のものになって当然だろうという考えだった。弟は大泣きした。弟が泣き止まないので、父と母がこっそり夜に持っていこうとしたものの、やすきは気づいて逆に怒った。

そこから、やすきの音楽生活が始まる。

ちょっといいコンポで、音質の調整もできるようなやつで、ラジオも聴けて、MDという太古の記録媒体も活用できた。だから、ラジオで音源をエアチェックして、MDにダビングする、というMuroの少年時代のようなこともできていた。そのやり方に気づかなかったけど。

今の世は、スマホ一台あれば音楽が聴ける。1000円払ってサブスクに入れば古今東西ほとんどの音楽が聴けるし、自主盤やレコードの音源もYouTubeである程度カバーできる。毎日のように、新しい音楽がリリースされて、人類が築いてきた音楽のアーカイブを、ほとんど聴ける時代。とんでもないことだ。当時は、シングルなら1000円、アルバムなら3000円支払わなければいけなかった。しかも、オーディオ機器もいる。小学生から音楽を聴いていた友達は、音楽の再生機器を持っていたのだろうか。音楽を聴くためには、情報を集め、お金を支払い、買いに行く、探すという熱量が必要な時代。

ともかく、恣意的に音楽を聴けるというスタート地点に立ち、やすきの音楽人生が始まった。

ただ、自分が何を聴けばいいかわからない。流行りの音楽もわからない。音楽が好きだった父に何を聴けばいいか訊いた。すると、「どういう音楽が聴きたいのか」と返された。それはそうだろう。どうすればいいかなんて、自分で決めるしかない、他人に聞くことでもない。音楽の前知識がないやすきは、とりあえず、聴きやすい、ポップなもの、と答えた。その答を聞いて父は、棚のコレクションから、Tower Of Powerの『Back To Oakland』を渡してきた。

Tower Of Powerは、70年代にアメリカで活躍したファンクバンド。このアルバムは、73年にリリースされたベイエリアの名盤で、ブレイクもあり、ガラージ・クラシックも含まれる。良いアルバムなのだが、20歳になって、MPCを叩き、サンプリングするようになって、やっと価値がわかったような代物だった。音楽経験を積まなければ、わからない、というもの。

当時のやすきは音楽の左右もわからず、聴いても意味がわからなかった。なぜ父が、ポップなものを聴きたいと言ったやすき少年にこのアルバムを渡したのか。今振り返ってもよくわからない。前衛的なジャズを好んでいたから、Tower Of Powerを聴きやすいもの、ポップなものとして捉えていたのだろうか。当時のやすきには聴いてもピンとこず、歌詞カードの和訳を、メロディーに乗せて覚えようとしていた。それは、小学生の友達が、カラオケボックスでGLAYの『Forever』を歌っていたのに憧れていて、自分も歌いたいという憧れからの行為だったのだろうか。

Tower Of Powerはやすきには刺さらず、コンポは鳴らないまま部屋に置かれていた。幾分かの日々が流れた。ある日、やすきはいつものように友達の西山くんの上に遊びに行った。幼馴染の沼と三人で、ダビスタのブリーダーズカップで遊ぶためだ。蒸し暑い夏の日だった。西山くんの部屋は、日中でも赤いカーテンを閉め、暗かった。道路拡張で大谷から上河原へ引越したため、家は綺麗で真新しかった。通っていた鶴山中学校よりずっと向こうで、自転車で30分以上かけて行っていた。

西山くんはラジカセをかけた。音楽をかけながらゲームをしていた。やすきはかかった曲に反応した。それが、Dragon Ash feat.ラッパ我リヤの『Deep Impact』という曲だった。

深い衝撃の余韻

ミクスチャー、ヒップホップとロックをかけ合わせたその音楽が、やすきを貫く。ラップという歌唱方法も衝撃だった。帰りにその足で、TSUTAYAに寄って『Deep Impact』のシングルと、コナンのエンディング曲だったルーマニアモンテビデオのアルバムを買った。Deep Impactのシングルは繰り返し繰り返し聴いたが、ルーマニアモンテビデオのアルバムは聴かなかったが、この間そのエンディング曲を聴くと、とてもいい歌だった。

Dragon Ashは日本の音楽シーンに革新を起こし、一世を風靡していた。ボーカル/ギターのkjはカリスマ的な人気を博し、ファッション雑誌のカバーをよく飾っていたり、音楽のみならず、カルチャーの影響力も強かった。

人生に影響を与えるような衝撃は、いつも偶然に出会すものなのだろう。TSUTAYAのレンタルコーナーに足繁く通い、コンポでMDに録音し、日本のヒップホップを聴き漁った。当時のヒップホップシーンでは、Nitro Microphone Undergroundがとてつもない勢いで人気を得ていた。地下での爆発が起こっていた。

大学生になり、神戸でakai MPC 1000という機材を買い、ビートを作り、ラップもやり、製作活動を始めた。『Deep Impact』を買ってから15年後、ラッパ我リヤと同じイベントに出た。打ち上げで山田マンと話した。一緒に出ていた韻踏合組合のヒダやんと生田川でなぜかけん玉をして遊んだ。やすきは韻踏ヘッズだったので、ダブルで夢が叶ったようだった。

何より、音楽をやることで友達が増え、自信もできた。ヒップホップ、ストリートには良い悪いがあったが、街の裏側から見えたものもあった。人生の大きな資産に変わる。

ラッパ我リヤのイベントに呼んでくれたもとすけは神戸で〈深夜喫茶スケルトン〉という店をやっている。横須賀の〈Magyoko〉でもライブをしてくれた。

一緒にグループを組んでいたオコゼは汐入で〈yaam〉を開いたし、神戸で初めてできた友達のDJ KEITAはレコードの会社で働いていて、同じクルーのDJ MORIはこの間ミックステープを発売していた。2人は、HCCという名前のクルーを組んでいて、服部緑地公園でイベント「AIR CONTROLLER」を毎年開催している。もう10年目になるらしい。ケイタがInstagramでDMをくれた。これから2章やなと、交流が再開した。

金星逆行中、自分が聴いてきた音楽を振り返って、Dragon Ashの、一番聴いたアルバム『Lily Of Da Vally』を聴き直した。普段は、店で流し聴きするだけなので、集中して、耳を傾けるということはなくなっていた。

『21st Centuay Riot』からライブの定番となっている『百合の咲く場所』までの流れが、静と動、ラウドとメロウの間を揺れ動く流れが大好きだった。当時は。kjが作り出すメロディーと、歌声とフロウに耳が入っていて、あまり歌詞の内容まで気に留めなかった。その傾向は30代前半まで続いて、あるときにやっと、「あ、みんな何か音楽を通して言っているんだな」と気づいた。

戦うしかないんだぜ

傷を舐め合うより輪になれ

また立つしかないんだぜ

Fight Again

共に目指す船出まで

アルバムに収録された『Glory』のリリックが耳についた。まだ青さと若さが残るこの言葉に、共感することができた。一進一退、浮き沈みを繰り返すhatis AOの経営は、挫けても挫けても前に進むことを強要される。結果が出まいが、冷たい言葉を浴びさせられようが、常に自分で奮い立たなければいけない。当時の若者のプロップスを得て、社会的な影響力を持っていたkj。デビューしてからはしばらく売れず、『陽はのぼりまたくりかえす』でヒップホップを導入し注目されるも、斬新な方法が批判を呼び、このアルバムのあとにキングギドラ『公開処刑』でZEEBRAにdisられ、表舞台から姿を消す。

どんなに転んだっていい

この空が淀んだっていいさ

大事なのは擦り剥いた膝で立ち

笑って振り向いた時の価値だろ?

30代を迎え、南米音楽を取り入れ、音楽的にも円熟を迎えていた時期の『Beatiful』の歌詞にも、kjの不屈さが読み取れる。挫折、栄光、挫折を繰り返し、今でも、大型フェスのラインナップにはDragon Ashの名前を見ることが多い。やすきも、30代あたりから、ボサノヴァをはじめとするブラジルや中南米のアーティストが好きになった。中南米の音楽は明るいイメージだが、貧しさが蔓延していて、せめて音楽だけでも明るくいよう、という向きもあるようだ。明るさ、激しさの影に、寂しさ、怒りもある。

しんどくても、きつくても、お客さんが来なくても、こうなりたい自分、経営者としての人生を目指す限り、歩み続けれなかればいけない。進学や仕事がうまくいかなくて、無力感に覆われていた時期だって、kjの言葉を思い出せばよかった。苦しいのは自分だけではない。目を背けず、立ち向かえるようになった今だからこそ、言葉を噛み締めれるようになったのかもしれない。

当時の音楽雑誌のインタビューで、音楽をやってよかったことは?と訊かれ、kjは「友達ができたこと」と答えていた。そう記憶している。やすきも、音楽を始めて友達ができ、出会いは視野を広げてくれて、関係から学び、成長できた。今では、店を通して、より広く世間というものを見通そうとしている。もし何か始めなければ、自分は卑屈なままだっただろう。心の根に張るものが、kjの音と言葉でよかった、と心から思う。土壌から先人の素晴らしい文化の栄養を取り、それが出会いや感性の葉が茂り、人生が豊かになった。