前回の続き。
白昼夢
本堂でのご本尊との対面が私にとって初めて出会う感情だったので、半ば心ここに在らずの言葉にならない思いを抱いたまま、この旅の最大の目的地である〈中尊寺金色堂〉へ向かった。

〈金色堂〉は国宝に指定されているため、現在は耐震と耐火設備がしっかりとなされた鉄筋コンクリート造りの覆堂の中にある。
その現代の覆堂の中の、分厚いガラス壁の更に10m以上先に夢にまで見た金色堂があった。
記憶が残る状態での対面は今回が初めてだったが、こういう時どうしてもすぐに職業病が出てしまい「金箔何枚貼ったんやろか」「須弥壇や柱の厚貝螺鈿見たいのに眼鏡かけても全然見えへん」「いやぁ、でもこの物量とあの曲面にこれだけの夜光貝のパーツ切って貼るだけでも相当かかるわなぁ…何人がかりで作ったんや?」と漆芸技術に関する興味や疑問が矢継ぎ早に脳内を駆け巡った。
ひとしきり凝視したあとハッと我に返り、この御堂を清衡公がどういう思いで建立したのかに思いを馳せた。
平安時代末期、清衡は二度にわたる大きな戦で家族を亡くし、骨肉の争いに巻き込まれた。血のつながりのある者や親類縁者同士で殺し合わなければならない状況は辛かっただろう。
私は両親や特に父方の親戚とは複雑な関係性があり、それこそ金銭が理由で守銭奴に成り果てた人も見てきたので、規模は比べ物にならないが正直清衡の気持ちは分かるような気がした。
故に戦で亡くなってしまった人々、そして死んでしまったすべての生き物の御魂を等しく供養し極楽浄土に導きたいという清衡の願いを叶えるために〈中尊寺〉という大掛かりな祈りの場を作ったのだろうと思うと、如何にそれが切実だったのかが痛いほど伝わってきた。
清衡はすべてを赦した。赦したからこそ等しく極楽浄土に導きたいと願ったんじゃないか。
だけれども、私は自分も含めて許すことが出来ず、許せないからこそ私と一緒に地獄に引き摺り込みたい相手がいる。そこが清衡と私の最も大きな違い。本願を遂げるために地獄に落ちる必要があるならそれすら厭わない。命を奪っておいて自分だけ助かろうなんてそんなの虫が良すぎる。絶対逃さない。
でもその考えが一瞬だけ消えそうになるほど、清衡が建立した金色堂は荘厳で美しかった。極楽浄土が金色堂のように美しく穏やかであるなら、亡き祖母やもういない我が子たちを安心して任せられる。後日母から聞いた話によると、34年前に最初で最後の中尊寺旅行の帰りに祖母はしきりに「良かった、良かった…」とずっとうれしそうに話していたと知った。やっぱり行って良かった。

おばあちゃん、私も34年越しにおばあちゃんとの思い出の場所を巡ったよ。
おばあちゃんがどうして中尊寺に行きたかったのかは分からなかった。道中どんな思いであのキツイ月見坂や美しい眺望を見たのかも想像の範疇を出ない。だっておばあちゃんの気持ちはおばあちゃんだけのものだから。でもそれで良いと思えた。私の気持ちだって私だけのものだもの。
それでも、この場所は静謐で清らかな祈りの場だね。
お母さんに後から「あの時おばあちゃんがとても喜んでた」と聞いて、それだけで私はすごくしあわせになった。連れて来てくれてありがとう。
夢のあと、のその続き
平泉といえば、もう一つ有名なのは「義経の終焉の地」だということだろう。
多分大抵の人はそうだと思うが、私は古戦場や刑場や首塚の類が怖い。誰かが明確に非業の死を遂げている場所が苦手だ。なので平泉に着いた直後は義経ゆかりの場所は避けようと思って駅に降り立った。
平泉駅に戻る道中に〈高館義経堂〉(たかだちぎけいどう)はある。
行きしなに近くを通ったが、「義経が妻子と共に自害した地」だと知っているからこそ、興味本位では足を踏み入れてはならないと思った。ただ中尊寺は素晴らしかったが、観光客に対しては色々思うところがあったのも事実で、それらを踏まえた結果『ちゃんと敬意を払った上で祈るならば良いのでは?むしろここまで目の前を通っておきながら無視をするのもかえって失礼なのでは?』に至り、勇気を出して登ってきた。
そこは平安時代より見晴らしの良い場所と言われてきた通り、屹立する束稲山と、衣川・北上川を静かに眺めることができた。行く前まで感じていた恐怖は消え去ったが、逆に今はこんなに穏やかなのに、かつて確かにこの地で義経は自刃し果てたこと。その二つの事実が余りにかけ離れていることに対して強いショックを受けた。


そして更にもう一つ忘れてはならないのは、松尾芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句を詠んだことだろう。
奥州藤原氏三代が築いた栄華は跡形もなく破壊され、今は田や野原になってしまったことを涙をこぼしながら記したらしい。
でも栄えていた土地が田畑になることはそんなに嘆かわしいことなのか?それだけが唯一引っかかった。
私にとっての田畑は『人が生きようとする営みの象徴』で、それこそ亡き祖父母はそもそも兼業農家。この旅のきっかけをくれた祖母は毎朝4時に起きて田畑の手入れをしていたのを幼少期の私は見ている。
この景色を眺めながら「ああ、夢の”あと”も、遺された人々の時間と生活は続くんだ」と知った。だから私たちは今生きている。
後編①に続く。