湘南移住記 第237話 『故郷への旅⑥ 一期一会』

キノシタショウテンで朝食を済ませ、やすきたち3人は、牛窓へ、車で向かった。瀬戸内市の街中から、夢二記念館を通りすぎて、備前牛窓線へと南下していく。

建物はさらにまばらになっていった。生茂る草むらが道の左右に広がっている。建物と建物の間に、誰の土地かわからない、空間が広がっている。ひさしぶりに見た光景だった。神奈川の東部では、所在がはっきりしている土地で埋め尽くされている。人も、土地も距離が近い。スペースがある、ということが、都会の人には感覚として理解できるだろうか。電車に寿司詰になるストレスは、岡山にはほとんど存在しないだろう。

道筋

以前にも、やすきは幾度かこの道を通ってた。 津山で〈hatis 360°〉を営んでいたころ。岡山、鳥取、広島のあちこちに出かけては、移住者とのご縁を作り、彼らから学び、価値観を再編する、といったようなことを繰り返した。東京圏で働いていて、限界を感じ、地方に移住して自分の人生をヴィジョンを叶える。移住の動きはコロナ以前からもあった。もっと言えば、福島の地震から、日本中で人の動きは活発になっていただろう。出会う人から、さまざまな生き方、価値観、くらしの在り方があることを学んでいた時期でもあったように思う。

もう、あの日々から、随分と距離ができてしまった。気がつくと、やすきはレールから外れた人生を送る移住者の立場になっていた。

そうか、横須賀では、そういった人たちが少ないのか。だからやすきが物珍しい。土地に馴染めるかは別として、田舎のほうがそういう生き方を選択している人の方が多いのかもしれない。

牛窓に〈Uni house〉というゲストハウスがあった。ゆりさんという同世代の女性が開いた。彼女は東京に出ていたが、地元の牛窓に戻ってきて、ゲストハウスを開いた。ゆりさんは英語がよく話せて、利発で、明るい女性だった。

やすきは〈Uni house〉を幾度か訪ねて、宿泊していたゲストたちと交流をした。ゲストのほとんどが外国人だった。

日本では考えられないが、外国では、半年ほど密に働き、何ヶ月単位で休暇をとり、旅に出るというライフスタイルがある。津山にいた時も、ドイツ人のカップルが来て、街を案内したことがあった。〈Uni house〉のゲストは、西欧からの旅客が多かった。詳しくはわからないが、エアビといったシステムをつかって宿泊客は予約をとるらしい。

旅に同行しているわかなちゃんの民泊も、外国人の利用が多い。エアビ、という単語をたまに話している。

ヨーロッパなど、英語が第二言語の国々の人が集まっても、彼らは英語で会話をする。しかも、中学で習った程度の英単語で。私たちは英語でコミュニケーションをとるためには、TOIECの対策をする、といった特殊な訓練をしなければいけないと思い込んでいるが、義務教育で学ぶ最低限の語彙と文法の知識さえあれば、充分に意思疎通ができる。

あるとき、〈Uni house〉で、アメリカ人、ドイツ人、フランス人といった国々の、しかも同世代の人たちの会話に混ぜてもらったことがある。混ぜてもらった、と言ってもやすきは英語で発言はできないから、聞いているだけだったが。六畳一間の和室に、お酒を持ち込み、各々違う国籍の人が4、5人とローテーブルを囲んだ。

会話は平易な英語で進められる。ヨーロッパ人の第二言語の英語は聞き取りやすい。アメリカ人のネイティブな発音は、省略が多すぎて、かえって理解しづらい。

あの夜の話題は、お互いの国の税制について意見交換していた。タックス、という単語が頻出していたので、なんとなく話のテーマが見えた。ああ、この人たちは、旅をしながら、行く先々でこうやって情報交換しているんだ。旅を通して学び、人生をよくしようとしている。向上の姿勢に、舌を巻いたことがある。

当たり前だけど、私たち日本人が酒の場でよくするような、仕事の愚痴であったり、その場にいない人の噂話をする、ということは一切なく、政治についての情報交換し、議論していた。

もちろん、彼らにも悩みや溜まっている鬱憤もあるだろう。それらを、旅先で吐き出すという行為はしない。生きることに対しての姿勢が、人格の成熟につながっていて、同世代であるにもかかわらず、随分と大人であるように見えた。日本人の同世代で、彼らほど落ち着きを持った人たちにやすきは出会っていない。

交差

やすきは横須賀に来たとき、ヴェルニー公園の風景を見て、複雑な心持ちになった。日本の防衛のために日本に来たアメリカ人たちのために、アメリカナイズドされた区域。米海軍基地内は、日本ではなくアメリカの領土だ。戦後から80年以上数えても、日本はいまだにアメリカ占領されている現実。

そういえば、横須賀にきてからというものの、以前にはいくつかあった外国人との交流の機会が減った。

話をするのは、マグヨコのトニーくらいだろうか。トニーは日本に愛着を持っているから、日本の良さを教えてくれる。一方、在日軍人がよく通うドブ板通りには毎夜、多くのゴミが捨てられている。それを、米海軍兵たちと日本人たちが一緒になって拾っている光景というのも見た。日本人の悪口を大声で言っているアメリカ人女性のグループと電車で鉢合わせたこともある。横須賀には、国際関係の多層のレイヤーが存在している。

突き当たりを左に曲がり、港町に出てきた。牛窓だ。以前いった〈てれやカフェ〉を通り過ぎ、〈ホテルリマー二〉の近くにあるコンビニに寄った。ここまで、交差点がほとんどなかった。

ふと気になって、スマホで〈Uni house〉を調べてみると、出てこなかった。Instagramに残っていたアカウントを見てみると、コロナの時に閉めたようだった。ゆりさんはもうこの街にはいないのか。一抹の寂しさがあった。

港町の海面は、朝の光を携えて、静かに揺らいでいる。時刻は、朝の9時を迎えようとしていた。記憶の波がさざめく。やすきは2024年現在、hiclyくんとわかなちゃんを牛窓に案内している。横須賀にやすきに出会わなければ、2人は牛窓に来ることはなかっただろう。

人生はゲストハウスのように、人生が交錯しあって、出会いと別れが、いったりきたり、繰り返されていく。