La Mort #1 『どこへ向かえばいい』

前回の記事は下記です。

先に言うと、私が一番伝えたいのは、この記事を読んだ人がどうか私と同じ轍を踏まないで欲しいこと。そして自分の人生の舵取りは自分でしなきゃダメ、大事なことほど手放してはならないということ。そして命が無事に産まれるのはそれ自体が奇跡だということ。

見たくもない映画

脳内が常に「死」で埋め尽くされ、自死の方法が勝手にリストアップされた。

まず練炭。道具を集める段階でバレるのと、目張りを完全にしないと愛猫を巻き込んでしまう可能性が高かったからやめた。
次にリストカット。あれは縦に躊躇わず深く切る必要があるが、失血死に至るまで時間がかかるので傷口を水に浸し続けなければならず、その過程で邪魔が入って遂げられないだろう。
縊死も私の荷重に耐えられる紐と、その紐をかけるに適した場所が無い。
ODは手っ取り早く家にあった市販の鎮痛剤を一瓶飲んだが、とてもじゃないが致死量に足りず失敗した。


結果的に餓死も失敗したが、そもそもなぜ餓死を選んだかというと、死に至るまで最も長い苦痛を伴う方法だろうというのが大きい。そして道具も不要だから上手くいけば気付かれずに死ねると思った。結論は前回の記事に書いた通り。
本当はその感情を共有して欲しかった父親にあたる元恋人はその責任から逃げた。だから私は相手と縁を切るときに「お前と私は一緒に地獄へ堕ちるべきだ、そこから目を逸らしたことを私は一生許さない」と告げている。


だから贖いのために、せめて私だけでもできる限りの苦痛と罰を受けるべきだ、そして十字架を背負うと決めた。

ただときおり正気に戻っては、そんなことをしてはならない、と踏み留まるを繰り返した。
その間も脳内では現実を生きるためと、自死の実行を阻止するために脳内で自分と元恋人を何度も何度も殺した。見たくない映画を無理やり四六時中、垂れ流されている感覚に近い。


この一件から6年後の2023年の秋。今の主治医に出会い産後うつの診断が下された際に言われたのは、『脳内で自分や他人に対しての暴力行為が行われるのは「実際にしてはいけない」と解っていてるからこそ、映像を見せることでストレスを逃し、自制心がブレーキをかけて命を守ろうとしてくれているため』だと知る。

どこへ向かえばいい

もう自分のことは良いから、せめて私を思ってくれる人のためにも立ち直らなきゃと、通院できる精神科を探した。でもどこも初診は早くて1ヶ月先、病院によっては2〜3ヶ月先にようやく初診予約が取れるという状況だった。心の病を抱える人の多さに愕然としつつ途方に暮れた。でも脳は今すぐ死ぬ方法を常に考え、隙あらば死のうとする状況で1ヶ月先まで待てるほどの猶予も自信もなかった。

状況を知った知人が当日診療を受け入れている病院を教えてくれて、藁にもすがる思いでその病院へ電話をした。とにかくこの『見たくもない映画』を止めてくれるならどこでも良かった。
電話口の医療事務の方は「待ち時間は長くなりますが、どうぞいらしてください」と言ってくれて、我が子を失ったあの日以来初めて少し安堵したのを思い出す。前回の記事で姉と一緒に電車に乗り倒れたと書いたが、その時と同じ路線に乗ることは怖かったが、この状況をどうにかせねばならぬ気持ちが強かったので、不安で激しくなる動悸を堪えながら何とか到着した。

そこから診察まで1時間以上は待ったと思う。私が女性医師の方が良いと指定したから。

行方不明の亡骸

私にはもう一つ取り返しのつかない悲しみがあった。それは我が子の亡骸に出会うことなく別れることになったこと。一目あの子に会うことも叶わなかった。


初期妊娠(妊娠4ヶ月未満)で亡くなった胎児の遺体は、許可を得た収集業者が火葬場で荼毘に伏すことになっている。
でもそれがどこの火葬場なのか、そしてどこに埋葬されたのかを知る術が無い。産婦人科で尋ねたが回答は得られなかった。その後今の夫との間に授かった赤ちゃんも助からず、同じことを別の産院で聞いたが答えはなく、結局二人の行方は未だ分からずじまいのままである。よく「自分は墓は要らない」という考えの人もいるが、それは自分が最期にどこに行くかを決められるからこそ言えることで正直羨ましいと思ってしまう。


私にはあの子のお墓が要る/要らないの選択肢すらなかったから。

どこに向かって祈ればあの子に届くのか分からないのが、より一層悲しみを深くした。今は世界のどこで祈ろうとあの子に届くと信じて祈っているし、裏を返せばそれしか方法が残ってないのだけれど。
そしてあの子には誕生日が無く命日だけがある。本当は毎年バースデーケーキを買って歳を重ねたことを祝いたかった。せめて月命日やそうで無い日も思い返してあの子の名前を心の中で呼んでは「どんな形でも良いから会えたらうれしい、けれどあなたの幸せが一番だから、お母さんはそれを心の底から祈っているよ」と今も言い続けている。

ちなみにこの当時よく聴いていた米津玄師の『vivi』。