8月21日、夜10:30。上大岡駅で落ち合う約束。そこから地下鉄に乗り換えて、車が置いてある場所に向かう手筈だった。
やすきは一時間早めに着いて、上大岡駅周辺を探索してものの、引っかかるものが見当たらない。
昔ながらの飲み屋が気になったが、勇気が沸かず、入れなかった。常連さんだけの世界で、白い目で見られたらどうしようと恐怖した。
地下鉄の奇跡

京急沿線の住民ならわかるだろうが、上大岡駅はとにかく人の乗り降りが多い。かといって、駅周辺がそこまで賑わっているというほどでもない。
20分ほど遅れて、hiclyくんだけが来た。わかなちゃんが直前で椅子をメルカリに売って、あとで来る、ことになったらしい。
地下鉄で移動する。一番後方の車両に乗った。座席に座ると、やすきたちの目の前にある人物が現れた。レモンチューハイを片手に、赤ら顔で、キャップをかぶり、片手に何か荷物を持っている。その顔は二人とも見覚えがあった。ラッパーのサイプレス上野だ。地上波の番組にも出演していた、横浜の有名人。
やすきはhiclyくんと顔を見合わせ、無言で、「サイプレス上野…だよね?」と確認した。次の瞬間、hiclyくんはサ上(敬称略)に「サイプレス上野さんですよね?」と話しかけていた。
hickyくんは以前、サイプレス上野のラジオ番組に投稿したことがあり、横浜のどこかのコンビニで、夜、サ上に遭遇したことがあるという。hiclyくんは経緯を説明して、自分の今の活動状況をサ上に報告していた。やすきは二人のやりとりを、黙って見ていた。
フリースタイルダンジョンで有名になったものの、やすきの世代はそれ以前からサ上は有名だったから、芸能人に会うような感覚になり、恐縮していた。hiclyくんの度胸をただただ見守っていた。話の内容に耳を傾けていた。
サ上くらいの知名度になると、1000人規模のイベントを打っているらしい。横須賀の感覚だと、音楽のイベントで20人集めるのも大変だ。直近だと、100人集客したスパイス祭が最高だが、横須賀まさら倶楽部として、チームで取り組んだし、当日も大変だった。
ただ、サ上も、最初から1000人から集めれていたわけではなかっただろう。お客さんがほとんどいない、というところから、地道に積み重ねて行ったに違いない。
小さなことの繰り返しが、大きなことにつながっていく。ひとつひとつを大事にしていかなければいけない。二人の会話を聞きながら、やすきはそう考えていた。人もまばらな夜の地下鉄。サ上は右手に吊り革を持ったまま、hiclyくんと話している。今夜は、町田のイベントに呼ばれて、向かっているらしかった。やすきとhiclyくんは先に電車に、降りた。サ上は、降り際にやすきに話かけてくれた。普通にいい人だと感じた。
それにしても、すごい偶然である。横浜に住んでいるとはいえ、目の前にあるとは思いもしなかった。しかも遭遇のタイミングは、遅刻しないと実現しないものだった。驚きの余韻に浸って、降りた駅でわかなちゃんと合流し、車に乗り込んだ。気がつくと、時刻は午前0時。翌日になっていた。
しばらく下道を走り、高速道路にジョインする。長い長い旅が始まる。目的地まで、約700キロ。
最初の関門が静岡だ。以前、やすきも岡山から東京まで車で走ったことがある。静岡は横に長く、いけどもいけども静岡で、精神的に疲弊する。闘いが始まったのだ。ただし、やすきは免許を持っていないので後部座席で見ているだけだった。