養老孟司さんは医者だ、という事実を、この本を手に取るまで知らなかった。しかも解剖医で、教室で研究をしていたという。
有名な著作物といえば、『バカの壁』。
やすきはこの本を読んでないか、あるいは読んだけれども、記憶に留めてないかのどちらかだ。『身体の文学史』を読んで、養老さんの本が世に広まった理由を理解できた。
近頃ではyoutubeでもお見かけする。機知に富んだ物言いと、柔らかな視線に、豊かな知性を纏っておられることを見てとれる。
世間では、極端な物の見方が目立っている。
極端な物言いを重宝されるのは、時代の変わり目だからだろう。考え方も一新しなければならず、不安定な時期。不安定でいろんなことが調整中で、模索しているから、とりあえずの答えに安心する。それが間違ってるかどうかは別として。
ひと昔前は新興宗教であったり、今は影響力のインフルエンサーだろうか。その時々の求心力が竜巻となって、人々は彼らの思考方法に縋っていこうとする。一時期はひろゆきに似た喋り方のおっちゃんが増えていた。
私たちは生きるための思想を教えられていない。むしろ、余計なことを考えないように教育されているように思える。
だから自分で作り上げていくしかないのだが、自分で考えていくという習慣をつけていない。
自分の考えをつくる過程で、読書は最も大切なことだ。
自己啓発書は、サプリなようなもので、一時的にはいいのが、表面だけで深い考えには至らない。
振り返ると、私たちは果たして本当に自分の考えで話しているのだろうか。周囲からの影響だけで生きてはいないだろうか。
自分の価値観がないと、振り回されたり、利用されるばかりで、自分の人生を生きることができない。

生きるためにはその人なりの思想なり価値観が必要で、思想を作るには日々の考えや行動を積み上げる必要がある。それは、ひとりひとり顔が違うように、生き方もそれぞれ違っていいのだから、お互いを尊重しあって、意見を交わすことが大事だ。
極端なもの見方はある面では強くて、即物的で、即効性があるのだが、何かを見ないということにも等しい。
水のように

この本の存在が気になったのは藤沢だった。藤沢の駅前にあるジュンク堂書店で、棚にあるこの本が目についた。どうも読まなければいけないな、と感じて、横須賀の図書館で借りた。
『身体の文学史』には、解剖医の経験を、文学史に落とし込んで記されている。解剖医の経験というのは、身体に関することだ。解剖ということは、ある種、身体に関して誰より長けている。
養老さんは、この著作に限らず、現代において「身体の喪失」について語っている。「脳化社会」とも。
例えば街を歩けば、みなスマホに夢中で、空を見上げる人はいない。電気と情報に溺れている。情報、ということは脳で処理を続けていることで頭が休まる暇がない。みんなスマホでゲームやアニメのコンテンツを楽しみ、夢中になっている。企業側も、スマホに依存させたほうが宣伝効率が高まるから、いかにスマホに時間を費やすかの工夫をさせている。
S NSは共有もできるし、楽しいのだが、人生において大切なことが全てそこにあるわけではない。お金に大切な人生の時間を奪われないよう、お互いに気をつけていかなければいけない。
AIは脳化の究極系とも言える。人間の頭の中だけで出来上がったものが、人間より効率のいいことを考えて、人間に指示を出すようになる。人間は次第に考えなくなって、機械と化していく。笑えない喜劇というか、なんともゾッとする未来だが、このまま行くと現実化していきそうだ。
養老さんは、本の中で「型の喪失」を取り上げている。本中で引用されているが、西田幾多郎に師事した唐木順三はこう論じている。旧日本軍が絶対化したのは、単独の型を持っていたからであると。型を失った文学は軍に圧倒された。型を持った個性は持っていない個を圧倒する。
戦後も、日本を統治したGHQが、日本のくらしの型を破っていった。私たちは、スタバに生き、アルファベットが入った洋服を着て、西洋の食文化を中心としている。なぜかと言うと、日本がそうするとアメリカが儲かったからだ。
日本人がもっていた日本人らしさは、私たちがかつてもっていた人間らしさは、水のように消えていくのだろうか。
もとにもどれるか
この本ではいくつかの作家を取り上げているが、そのうちの1人に深沢七郎がいる。『楢山節考』という、姥捨山を題材にした短編小説を著した人物だ。
深沢は時間や空間の拡がる限り、いつ始まってたのか、いつ終わるのかわからない流転を描いた。
出生や死すら自然現象、という世界観の持ち主だった。私たち現代人の中に、いかほどそういった感覚を持った人物がいるだろうか。
この深沢七郎という作家に興味をもった。
脳化社会は進んでいく。止まらない。私たちはいつも頭で考え、美しい空に見惚れるとか、何気ない小鳥の囀りに耳を澄ますことを忘れている。それが不自然であることも気づかずに。