コーキはギターを爪弾き、声を張って歌い始めた。エデン横浜には、四隅に至るまで、スパイスの芳香が漂っている。観客はスパイスカレーを食べたばかりだった。
香りに満ちた部屋で、歌が響いていく。いつもの曲か歌ったあと、コーキは新曲を披露した。タイトルは「屍」だった。
彼の敬愛するチバユウスケの葬儀が、3週間前に執り行われていた。みなさんも想像してほしい。自身のロールモデルになる人物が亡くなったとしたら、どのような心許ない状況であるかを。広大な海洋に放り込まれて、羅針盤と地図を失ったことに等しい。
「屍」は追悼だったのか、それを乗り越えてようとするこという意志だったのか。
どちらにしろ、そのレクイエムを、そこにいただれもが漂うクミンシードの香りを吸引しながら聴いていた。コーキの表情に見惚れて。
逗子海岸にて

チバユウスケが亡くなる1週間前。ある夕方、やすきはコーキとhiclyと逗子海岸にいた。沈む夕陽を前に、3人でこれからのプランを話していた。
薄紫の富士山が幻想のように淡く佇んでいるのが見えた。波の音が静かに落ちていく。どちらが現実で、どちらが幻なのだろう。
横須賀の三笠公園で〈AO フェス〉という企画をしないか、とhiclyは提言した。〈Hot Chillin’〉はスパイスと音楽がコンセプトだが、〈AO フェス〉は純然たる音楽のフェス。
おもしろい。できるかどうかは考える前にやすきはその話を引き受けた。その過程で、いろいろな場所でライブをしようということになり、エデンでライブがしたいとアーティストの2人が申し出た。
やすきは2人にエデンのことを話していた。イベントバー、と言っても行ったことは想像もつかないだろう。
やってみようか、ともかく。コーキの弾き語りと、hiclyが属するヒップホップグループ、Universal Radioのライブイベント。やすきはこまつさんに連絡をとって、日取りを押さえた。
アーティストがエデンに興味を持ち、ライブをするというのはいままでにないパターンだろう。後で高橋さんに確認もしたが、エデン横浜では初めてのことだった。
エデンのみんなにしても、普段は浴びない波動を放つ2組だ。いい刺激になるだろう。2組の音楽を聴いてほしかった。
エデンとまったく違う世界の住人をつなげるのが役割だと、波の音に心を沈めながら、やすきは考えていた。思案に耽るうちに、瞬く間に夜を迎え、紫の富士山は消えていった。辺りが黒く溶けていく。
チバユウスケが亡くなってから2週間後。やすきは落ちていた。自身の店をしばらくの間、閉めることにしたからだ。
エネルギーの風船が急に萎んで、文字通りに意気消沈していた。その間も、進行しているイベントの連絡はしていたが、本当はだれとも連絡をとりたくなかったし、会いたくもなかった。
やすきは思わぬ心の変化に戸惑っていた。
芳香と音の交わるところで
いつもの調子で人を巻き込みたかったが、うまくいかずに、イベント当日を迎えた。人が来なかったら2組に申し訳ない。そんな気持ちでいた。
午前中に鎌倉でシステムキッチンを搬入する仕事を終えて、不安になりながらエデン横浜に向かった。
エデン横浜は新体制になったところだった。その日はきりさんもこまつさんもいなかった。
新しく店長になったなるみくんと、副店長の音大生の頂点さんがスタッフとして入っていた。まるで知らない場所に来たようで、最初は心許なかったが、準備しながら2人と話していく内に、ああ、こういう人間なんだな、と心のひとひらをつかめた。そこから安心した。
イベントがはじまった。いの一番に来てくれたのは埼玉からきたもろこしさんだった。19時までには人がぽつぽつきてくれて、なんとかライブイベントの形にはなってくれた。ありがたかった。

1組目、Universal Radio。解散をかけた大一番のライブを終えてから、初舞台。新しいステージに立った、という意味では、ライブをしたことがないエデン横浜はうってつけだったろう。
Universal Radioは熱も冷もある。観客はヒップホップのライブが初めてであっただろう。それどころか、音楽のライブをみるのが初めてという人もいた。もろこしさんがそうだった。アガッた、とXにポストしてくれた。
スパイスカレーづくりを挟んで、コーキの弾き語り。今回はアンプを通さずに、生音でライブをする。結果、圧が中和されて、落ち着いて聴けた。間に挟むMCも、いい塩梅だった。自分のことを語りながら、エデンとつながりの糸を紡ぎ始める。そこにいただれもが、コーキから目を離せずにいた。AKIさんはいつものように、灯るような眼差しでコーキを見守っていた。やすきはそれを見るのが好きだった。

イベントの最後。副店長として初めての仕事をさた音大生の頂点さんがすこしライブをしてくれた。頂点さんは渋谷の路上で叫ぶ動画をYouTubeにあげていて、有名な人らしかった。
「俺はジョン・レノンの生まれ変わりだと思うんですよね」と頂点さんは語っていた。そう思わせるくらい、曲は素晴らしかった。惹きつけるなにかがある。

拍手と共に、一夜が終わった。やすきは息をついた。
Hot Chillin’が3回目にして、形が見えてきた。小規模な開催をしたことによって、コンセプトが明確に顕在化した。香りと音が集まる場所。
五感のうち、嗅覚のみが情動を引き起こさせる。スパイスの香りに心が動いて、いつもと違う深さで音楽を体感できる。未知の体験を、この日集まった人はしていた。
イベントには横須賀に移住してきた写真家/詩人の早乙女ボブさんも駆けつけてくれた。落ち込んだやすきを励ましにきてくれたのだという。「はやく、元気な姿を見せてくださいね」と言ってくれた人もいた。
嬉しかった。単純に。
このHot Chillin’が、新しい日々のバースデイになれば、と思った。やすきだけでなく、ここな集まった人すべてが、それぞれの苦難苦闘を乗り越え、ここに来ていた。落ち込むときもある。だからこそ、たまに集まって騒ぐことが、活性剤になる。
Hot Chillin’はつづいていく。店も。次はどんな香りと音の物語が待っているのだろう。