2022年9月下旬のプレオープンから数えて、1年が経ちました。
ここまで来れたのも〈hatis AO〉に関わってくださるみなさまのおかげです。ありがとうございます。
オープンからこの一年、みなさまとの出会いも含めまして、振り返りをしていきます。どうぞおつきあいください。
いいこと、そうでないこと
この1年はとにかくキツかった。オープンまでの道のりも大変だったが、開いてからも辛い日々だった。辛い、というのは精神的、体力的、金銭的に。
岡山県津山市でやっていた喫茶店、〈hatis 360°〉は持ち物件でやっていて、負担が少なかった。店を開けて、夕方で閉め、夜は料亭やミュージックバーでも働く、という時期もあったものの、生活の中心は店だった。ストレスも少なく、友達にもらったYAMAHAのスピーカーで音楽を聴きながら、お客さんと珈琲を飲んでいた。
店舗は元倉庫だったので、天井が高く、クリアな音質のスピーカーから出る音が反響して、いるだけで心地よかった。人気絶頂だった頃の舐達磨を大音量でかけていた。平和だった。バダサイはこういうことを歌っていた。
踏み台にして突っ込んだ
何処から来て何処へ行くのか
本音 吐いて 胸を張るんだ
間違った 考えや残酷な絵図は
行動に伴えど千差万別
受け入れて生きて行く中
ただこのまま
横須賀で始めた〈hatis AO〉の経営は、賃貸物件なので、そうもいかなかった。店と生活を両立させるために、店を開きながら仕事をする。平日に派遣の仕事をして、週末にhatis AOをオープン。
佐野町でスペシャリティコーヒーの専門店・〈No.13〉をしている野口さんは、週5で正社員で働いて、土日で店を開けていた。つまり、休みなしに働いていた。2年間、そのサイクルをやり遂げ、ついに独立を果たした。

その姿勢を、見習わなければいけない。私も、休みなしで働き始めた。オープンしてから2023年末まで、週5で三春町の工場で勤め、土日に店を開けた。
その時期はほとんどお客さんは来ていなかったが、店を開ける約束を果たすだけでも根性が必要だった。2023年以降は、それまで避けていた日雇い派遣にお世話になり、フレキシブルに動けるようにした。人が荒いので、日雇い派遣は気が進まなかった。もう、慣れてしまったが。
なぜそこまでしなければいけないか。津山の〈hatis 360〉から横須賀の〈hatis AO〉までのストーリーは、遺産相続がきっかけだった。自分の力で生きていない親族がいた。持家で店をやっていた私もそうだった。猫のことも、暮らしにも、移住にも、お金の問題が付き纏った。
お金のサイクルを、〈hatis AO〉で解決する。それも、自分のやりたいことで。中山家は商人の一家なので、やすきは経営者の血筋を引いている。独立する。そうすれば、やすきの人生が次のステージに進むことができる。
過酷な道のりだった。物理的に時間もなく、限られた時間で仕込み、買い出し、掃除の準備をしなくてはならない。体力はとっくのとうに使い果たし、身も心もボロボロの状況が続いた。メニューも限って、回せるだけにしていたし、開けるのに精一杯で、店として満足にできていないことばかりだった。「今日ばかりは店を休みたい」、とオープンの直前に強く思う。
野口さんも、〈エデン横浜〉のきりさんもそうだった。店を開け続けながら、体調を崩していく。細い一本の綱を歩いていくようなきぶんだった。
それでも野口さんはやり切った。ある種の狂気に身を委ねて、信念で坂道を駆け上がって行った。何かを成し遂げるには、強い気持ちと集中力が必要であることを知った。
hatis AOは集客がうまくいかなかった。開いて三ヶ月ほどはほとんど来客がなく、経営としてはマイナスだった。休みなく営業して、身を削ってスパイスカレーを作っても、食べてくれる人のあてもなく、自分一人で食べきれなくて、我が子のようなスパイスカレーを廃棄した覚えがある。スパイスカレーに申し訳なかった。 庭の土にスパイスカレーを埋めると、栄養源になったのか、蟻が大量発生した。寝床にも這ってきて、夜中に噛まれて寝れなくなった。しっぺ返しを喰らった。
ただ、最初期から来てくれ続けている常連さんもこの時期に来てくれていた。この時期に来てくれていたお客さんは店の周知に協力をしてくれて、店の情報をネットにアップしてくれた。いいカメラで、雰囲気のあるいい写真を撮ってくれた。古民家なので、被写体として撮りがいがあったのだろう。
0〜1人だった来客が、12月は5〜6人の日も出てきた。翌年1月〜2月は一桁台後半が安定しだした。3月になって2桁台に乗った。この頃から、なぜそうなったかはわからないが、google mapを見て来店してくださる方が増えた。それまではブログやインスタ中心に店を知ってもらっていたので、ある程度、店の周知が限定的だった。東京から横須賀へデートにしに来たお洒落な方達が、当店を選んでくれる、ということもあった。
4月までその流れが落ち着いものの、極端に来客が少ない日もぽこぽこ出る。とはいえ、ランチ営業で派遣で一日稼働分の利益が出始めるようにもなった。なので、この辺りから休みがちょいちょい入れれるようになってきた。
転機は4月後半から、うみのとなりさんというライターさんにヤフーの記事を書いてもらって、反響が大きかった。8席では対応しきれなかったので、急遽、3席増やした。それでも開店と同時に席が埋まって、2時半までに2回転。来客は20人を越え、完売してしまい、お断りする方も何組かあった。
カレーが余って捨てていた時期から考えると、信じられないような話だった。対応しきれないので、ランチを二部予約制にしようかと悩んでいたほどだった。
だが、この頃は味が荒れていた。スパイスカレーも珈琲も。ワンオペの限界が来ていて、提供時間も遅かった。実際、この頃に来られたお客さんでリピーターになって頂いた方は比率的にかなり少ない。
6月。調子に乗って平日営業を始めることにするも、波が落ち着いて、お客さんの流れが途絶えた。平日開けてボウズの日もあった。オープン当初に戻ったかのようだった。しかも、始めた夜のバイトが合ってなさすぎてストレスが溜まっていた。体力的にも、平日は13時間ほど働いていたので、道に倒れそうになった記憶がある。
7、8月は我慢の時期だった。利益も減っていた。暑すぎて、横須賀全体の飲食店が集客を減らしていたようだったので、hatisは致命的だった。案外、風があって涼しい日もあったのだが、ネットで「カレーは美味いのだが暑い」というレビューも書き込まれていた。
9月はいろいろあって日曜日のみの営業とした。営業日を増やしてください、という声もあったのが救いだった。集客は当然減る。10人いかない日が多かった。
やってきて一番の問題点は体力面。時間。
開け続けれるように少ないメニューで行っていたが、それでは店としての態勢が整わない。スパイスカレーも調整の時間が短くなり、味にバラつきが出る。珈琲は、途中で諦めてしまっていた。平日営業で出し始めたパウンドケーキも、お酒も、あまり出なかった。子供さん用に用意したオーガニックアップルサイダーは大人にも人気だった。
限界の表面張力を張り続けると、体調が崩れる。強引に店を開けようとしすぎた。無理を通そうとしすぎた。それは結局、自分に跳ね返ってくる。6〜8月の停滞は、その最たるものだった。
ヴィジョン

夏のある日、エデンの高橋さんと話したことがあった。自分は野口さんのようにはなれないと。店をやりながら、自分が職人気質ではないことを悟った。スパイスカレー も珈琲も探求しなければいけないが、やすきの場合、研究なのだ。研究という言葉がしっくりくる。つまり、大衆化というプロセスがすっぽり抜けている。
なのでhatis AOも、表現、という風にはよく言われた。
だが1年も経つと、店が自分の物だけではなくなってきた。店の味というより、店で過ごす時間を求めてくる人が多くなった。
夏の平日営業で失敗だったのは、営業を昼の三時で切ってしまったことだった。それでは、ランチ営業後に始める常連さんたちを中心とする濃い時間帯がなくなってしまったことだ。ランチが終わった後、その日、そこにいた人で濃密に話し込む時間があった。中には、その人にとって大切だろう、という場面もあった。
店を開いてから分かったことだが、店をやりながら別の仕事を持っている、という人は案外多い。
CAD関連、ペットフードの販売、建築業の仕事を持っているが、本業が暇なので派遣で働いている個人事業主。
飲食店でも、週3〜4営業のお店の場合は、副業を持っていることだろう。近頃だと、間借りで限定的に営業をしているケースもある。スパイスカレー屋で多いのは、BARを借りて営業するケース。店舗を持つ、というリスクを抑えれるため、尖ったことができる。尖れば街で話題になるし、コアなファンもついてきて、お客が見込める手応えをつけて出店する。私もそうなのだが、スパイスカレーは飲食の調理経験がなくても開く場合が多い。その分、研究をする時間を持たないといけないが。
いずれも、固定客を獲得するまでのステップだ。三浦半島では、三崎の移住組がよく見かける。横須賀でもちらほら。
移住は、自分のヴィジョンを叶えるために地方に移る、という目的の場合が多いようだ。
今は、元からそんなにない人気がさらに落ちてしまって、またしても利益がそんなに出なくなった。が、その代わり、関わる人が10倍増。お店の状況は、また建て直して、多くの人が集まる状況にする。
もうずっと状況を建て直すということを繰り返してきた。人の助けを借りながら。この一年の道のり、関わってくれる一人一人の助けがなければ、渡りきれなかった。お一人お一人の顔を思い浮かべながら、今これを書いています。
本当に、ありがとうございました。
これからも関わりを続けてくれる方、今後ともよろしくお願いします。
自分のヴィジョンを叶えることが、横須賀という地域や、関わってくれる人の役に立つ。そういう動きにしていく。