茅ヶ崎を訪れよう。そう決めたのは前日の夜だった。
このところ、心が苦しかった。苦しさを解消するために、葉山や鎌倉に出向くことが多くなっていた。海を眺めて、心を鎮める。
平日営業もでき、週1の休みが確保できたのだが、代償が、あまりにもあまりに、だった。
なぜこういうとこになってしまうのか。焦って選択したからか。焦っていたのは前の店を閉めてからずっとだったが、ここまで消耗するとは。
〈Hot Chillin’〉で盛り返したものの、憂鬱な日々がつづく。店の営業にもそれが出ていたような気がする。よくないサイクルだった。
いや、なにかちがう。心を決める。そのことが今の私に足りてない。
ぐすついた夏の火曜日
夏だが、ぐすついた空の日だった。
午前中、スーパーのレジのweb面談があった。結果は、落ちた。正直、そのアルバイトも気が進まなかった。
店のためとはいえ、気が進まないことをやってしまうと、流れが澱んでしまう、ということを学んだ。

学びの代償を埋めるため、休みをとり、茅ヶ崎にむかった。休みといっても、仕込みや買い出しに半日は使う。週に1度か2度、3-4時間の猶予。
県立大学駅から逗子駅に出て、JRで茅ヶ崎までの切符を買う。逗子から、大船で乗り換え。なかなかの大移動だ。
大船から熱海へと向かう電車の窓から、いよいよ怪しくなってきた雲行きがのぞいた。空の向こうから、不穏な黒雲が襲来したようだった。傘を持ってきてなかった。他の乗客も傘を持っている様子はなかった。急な変化だったのだろう。
辻堂駅で降りる。ここはまだ茅ヶ崎ではなく、藤沢だ。駅前には、白亜の城のような立派なテラスモールがある。
三崎にいた頃、一度、辻堂を訪れたことがある。創業から25年を数える〈27 coffee roaster〉に行くためだった。エチオピアのアイスを頼んだ。関東に来てから、東京を含めても、上位に入る珈琲だった。紛れもない名店だった。
その後、店がオープンした時分、茅ヶ崎美術館で展示されていた新版画展を見にいきたかったが、時間とお金がなくて来れなかった。店に飾りたいほど好きな、川瀬巴水の原画を目にしたかった。

ふたつの目的
ここまでの道中、電車の座先で、ふたつ目的を思いついた。ひとつは、スラムダンクの映画でラストシーンの舞台となった辻堂海岸にいくこと。ふたつ目は、〈Brandin 〉にいくこと。
〈Brandin 〉は、ラッパーのなみちえをきっかかに知ったお店だ。雑誌のBrutusかPopeyeに、なみちえが兄弟と共に連載をもっていた。なみちえらは茅ヶ崎在住で、〈Brandin 〉をリコメンドに挙げていた。
レコード喫茶で、レコードを聴くことを好んでいるらしい。前々から行ってみたくて、地図アプリにブックマークしておいていた。
今日は好きなことをして、気分を晴らすことにしよう。体力とは別に、心の水槽が枯れていた。
駅から降りて、辻堂海浜公園へとつづく南への大通りを歩く。このあたりはまだ藤沢だ。新興の住宅街で、横須賀の昭和から平成初期の古い街並とは違った。整然と、綺麗な家が続いている。言い換えればどこにでもある風景でもある。横須賀の入り組んだ迷宮のような街の作りは、なかなか見かけることがない。
途中で、カレー屋の看板をみかけた。火曜日の昼2時前だというのに、行列ができている。

〈ミナミカレー〉というお店で、あとから聞くとテレビに最近出たそうだった。地元の岡山にいた頃は考えられないが、神奈川がメディアの中枢である東京が近くにあり、その影響力が大きい。
hatisもこのくらい盛り上げよう、と誓い、さらに進む。
住宅街の細い路地裏に入る。湘南らしく、普通の住宅に挟まれるように、時折に豪邸がある。普通の住宅から、母親らしき人が出てきて、自転車に乗り込むところを見た。なにかを思い出したように、再び玄関を開けて、
「そこのスイッチ、切っといてね」。
と家の中にいる人に大声で伝えていた。中にいる人が、子供なのか、老人なのか、はたしてわからない。母親らしき人は、おそらく買い物に出かけたのだろう。曇り空の下を自転車で駆けていった。
歩いていくと、県道30号線に出る。信号を渡り、鉄砲道を抜けると、茅ヶ崎市に入った。黄緑の陸橋の下のコンビニに入って、トイレを借りた。
借りるだけでは申し訳ないので、スターバックスがプロデュースした缶コーヒーを買った。トイレに、茅ヶ崎の花火大会がある日は、夕方に駐車場を閉鎖するという張り紙があった。
逗子では猛暑対策のため、今年は花火大会が6月に開催されていた。今日は雲が陰っているが、連日の異様な暑さである。
Jリーグでも夏を避けるために春秋の2部制になる、という話もある。温暖化を避ける術は皆目見当たらない。
この辺りは、茅ヶ崎の富士見町というエリアだった。偶然にも、hatis AOがある場所と同じ名前。富士山が見えるのだろう。西日本では見かけない地名だ。
鉄砲道を進む。この道は江戸時代、鎌倉の腰越まで、鉄砲の訓練場のために、幕府によって作られた。旧道だった。
そんな歴史がある道に、〈平和学園〉というピースフルな名前の学校が建てられていたのは、皮肉というか、時代の流れだろう。こじんまりとした校舎で、やけに記憶に残った。ウクライナとロシアの戦争はまだ続いているが、銃より平和を。
平和を祈ってるうちに、〈Brandin〉に到着した。
雷雨の中で

店に入ると、カウボーイビバップに出てくる、キャップをかぶった3人のようなおっちゃんがくつろいでいた。カウンターに、趣味のいい家具。大きなテーブル席がふたつ。ジュークボックスが設置されている。店の中央には放送局で使われていたというレコードプレーヤー。そして、棚一面にある、レコード、レコード、レコード。

カウンターから出てきたお店の女性に丁寧に奥のテーブル席に案内された。メニューを差し出された。ドリンクがいくつか書かれてある。アイスを頼みたいところだが、あたたかい珈琲を頼む。マンデリンとグアテマラか迷って、グアテマラの浅煎りにした。
珈琲を待ってる間、店の棚をディグる。レコードが大まかなアーティスト名と、ソウル、ジャズと区分けされていた。日本のものは日本のもので一棚分ある。
80年代のミュージックマガジンが横並びに揃っている。どこかでみた眺めだと思ったが、亡くなった私の父のレコード棚に似ていた。この店のご主人と、父は同世代だったのかもしれない。父も90年代以降の音源は、リイシューを除き、ほとんど買っていなかった。
ミュージックマガジンのダブ特集号を、とって読む。今年の春に亡くなった坂本龍一教授がダブについて語る記事があった。ダブを方法論からの視点で、当時のイギリスのバンドの取り入れ方について語っていた。なんとなく、いつまでも生きていると思っていた父も坂本龍一も亡くなってしまった。時の流れ。
珈琲が運ばれてきた。ご主人らしき男性の方だった。
すると、堰を切ったように、突然の雷雨が降り注ぎ始めた。すこしすると、停電があった。レコードも止まった。めずらしい出来事だった。電気は少しすると復旧したが、神様が、お前ここでしばらくゆっくりしていけ、と計らってくれたかのように察した。

「レコードは、何枚あるんですか」。と聞くと、「数えたことはないけど、一万枚くらいかな」。と答えた。多い。私の父のレコード棚が3つ分はある。
好きなレコードを選んで、かけてもらえるということだったので、吉田美奈子のLPをかけてもらった。お客さんが持ってきたレコードがかかっていて、それが80年代の日本のレコードだったからだ。
その後、レコード棚を見ていると、BiBioの『Sleep On The Wing』というLPを見つけた。これは2020年に出た新譜で、なぜここにあるのかご主人に尋ねると、「いつ買ったかわからない。私ではないかもしれない」。どうやら、さきほど案内してくれた奥さんが購入したもののようだった。
空を飛んでいる夢を見ているかのように、浮遊感のアルバムだった。ギターとバイオリンにダブのようにリバーブ処理が施されていて、夢心地になる。サブスクでは聴いたことがあったが、レコードでは初めてお目にかかった。このアルバムもリクエストした。
窓の外に降る雨を眺めていた。なにも考えず、珈琲を啜る。最良な午後3時のように感じられた。もしかすると、レコードより、雨の音を聴いていたのかもしれない。
夜のアルバイトは大手の店で、そこで働くことは、自分に嘘をついたような感覚に陥っていた。ストレスも多く、この2年で1番苦しい仕事だった。
3人のおっちゃんが話を続けている。辻堂のどこそこにこんな店ができたとか、他愛もない話。横須賀の久里浜から千葉の房総半島に行く話題をしていたので、横須賀から来たんです、と話しかけた。どうやって茅ヶ崎まできたのか尋ねられた。
雨があがった。2時間ちかくいただろうか。いつもは雰囲気を見計らって出払うのだが、ゆっくりできたのは、突然の雨のおかげだった。
お邪魔しました、と言って店を後にした。明日から一ヶ月の夏休みで店は休業するとのことだった。幸運と偶然が重なった。
雨があがって
その後、辻堂海岸まで出た。空はまだ灰色だったが、自分の店以外にようやく自分らしいことをして、気が晴れた。

スラムダンクに使われたのはここだろうな、と目星をつけ、海南のモデルになった湘南工科大学の校舎を外から眺めた。

帰りに、辻堂駅の南側にある〈カレーと定食の店 ピクルス〉で夕食をとった。最新号のジャンプや、課長島耕作が並んでいる、昔ながらの店だった。カツカレーを頼んだ。愛がこもっていた。チェーン店の何倍も価値があるように感じられた。いつか、愛が多くの人にとどきますように。
〈Brandin〉
茅ヶ崎の住宅街の一角にあるレコード喫茶。
〒253-0031 神奈川県茅ヶ崎市富士見町1−2
〈カレーと定食の店 ピクルス〉
駅前にあるカレーと定食の店。
〒251-0047 神奈川県藤沢市辻堂2丁目9−33