なぜ、それをやるのか

人はなぜ、なにかをするのか。

「生存のためだけだったらムダですよね。なぜやりたいことをやろうとするんだろう。」

自分でも驚くような言葉が口をついて出た。18:37、火曜日のエデン横浜。保土ヶ谷駅から30分ほど歩いてきた。

神戸と横浜は似ていて、横浜の風景と神戸時代の記憶を置き換えていたが、保土ヶ谷区は独特だった。いままで見たことがない風景だった。

吉井川という、私の地元にある一級河川に名前が近い川があった。橋の袂で、親子が何かを話していたを見た。夏の横浜は薄く薄く、夕暮色に染まっていく。

どうなんですかねー、と、こまつさんがグラスを磨きながら軽妙に応える。後ろではきりさんがパソコンに向かって仕事をしていた。こまつさんの受け答えの間が心地よかった。すこしして、ゆうき君が到着し、笑顔の高橋さんがやってきた。今日のタスクをこなしたきりさんは自宅へ戻って、その日の夜がはじまった。

Port

地元の岡山県津山市ではじめてのお店をオープンする1年前。Port Art & Design という場所で働かせてもらった。

Portは、津山市指定重要文化財である旧妹尾銀行を改装したギャラリーで、コーヒースタンドも併設された、新設の施設だった。津山は盆地なのだが、津という字は船着場という意味で、人が出入りするという意味でPortと名付けられた。

館長の飯綱さんはフランス帰りの男だった。アートを学び、隣町の鏡野町の町会議員の仕事を兼任しながらPortの運営をされていた。

現代美術。1800年代後期の印象派が好きであったり、北斎の展覧会を見に行ったりと、ヴィンテージな美術は好きだったが同時代に生きる人がつくっているアートには興味がなかった。よくわからなかったので、来たお客さんに全員話しかけた。自分の店を開くとき、話しかけたお客さんが来てくれて、何人か常連になってくれた。

1人の作家さんの展示が1ヶ月単位で順々巡りで変わっていく。私は音楽をつくっていたが、美術家の方達にお会いするのは初めてだった。

絵。写真。陶器。ガラス。鉄。

さまざまな形式で各々の作品を発表している。私はすべての作家さんに、あるひとつの質問をしていった。

「なぜ、それをしようとしたのですか?」

いろいろあるアートフォームの中から、なぜ写真を選んだんですか、といった、なぜその表現手段に至ったのか、という意味合いの質問だった。

なぜ、それをするのか

きっかけは鉄で表現物をつくっている広島の女性に出会ったからだった。鉄で芸術作品をつくる、という発想はなかなか思いつかない。

造形をしている人は土なら土、ガラスならガラス、鉄なら鉄と、原料をきめて、それ以外のものはつくらない。作家さんにとっては当たり前なのだろうが、どうも私にとっては不思議に感じたからだ。

件の質問に、作家さんの答えは決まっていた。多人数に聞いたが、答えは1つしかなかった。

「わからない。」

偶然の出会いがあり、そこからそれをつくることにした、というパターンが多かった。

たとえば鉄をモチーフにつくっている女性はヨーロッパを周遊していた際、何かを見つけようとして、鉄でモノをつくる師匠に出会ったから、と答えた。そういう出会いがあったからというだけで、なぜ鉄で作り続けているか、という問いにはわからん、ということだった。

写真家の人も、画家の人も、はじまりのところを聞くと、ボヤっとしている。輪郭に靄がかかっているようだった。偶然に偶然が重なって、という話が多い。

写真や陶器で家族を食べさせていく、芸術で暮らしていく、ということは果てない道だ。それをやっている人たちがいる。生活のために別の仕事をしながら、表現することをやめない人たちがいる。

天狗寺陶白人さんという、津山市加茂の山奥で作陶されていた方の自宅兼作業場を見させてもらったことがある。陶器で何人もの子供さんを養われた。手製の窯が3つあり、無言の迫力があった。私が店を開いてからしばらくして亡くなられた。たしか私の父が亡くなった時期と同じだった。会った機会はすくないが、尊敬していた。

北野武監督も、製作予定だった深作欣二監督のスケジュールが合わず、やむなく北野武に矛先が向いたという偶然から、『その男、凶暴につき』で映画監督デビューしたらしかった。これも自分の意思ではない。

なぜ珈琲を焼くのか。紅茶を淹れるのか。DJをするのか。なぜその仕事をするのか。明確な答えを求めること自体が野暮だ。

ひとつだけ言えるのは、人と比較しても意味がないということ。商売をやっていて、儲かっていたり、注目されているところは羨ましいが、まったく同じことをやっている人というのはいない。それより自分に集中したほうがいい。

馬鹿にされたり、笑われようもするが、相手にしてもらえなかったり、自分を粗末に扱われる人の場所には行かん。それより自分と関わってくれる人との関係を大切にしたほうがええ。

自分の道を往く

やりつづける

私は、幼い頃から絵を描いていて、10代は漫画家を目指し、勉強そっちのけでデッサンをしていた。19の頃、神戸でヒップホップのクラブに出入りし、かっこよい先輩に認められたくてMPCという機材を買ってビートの製作をはじめた。20代はWebデザイナーを目指した。

ほとんどが挫折し、夢が叶うことはなかった。気がついたら今はスパイスカレー屋をしている。

オコゼという、一緒にヒップホップグループを組んでいた仲間が、東京に出てきていて、久しぶりに会った。メシのことがやりたい、とDMがきて、自作のビリヤニ(スパイスの炊き込みごはんのようなもの)を横須賀までもってきてくれた。

「スパイスって、ビートつくんのと一緒よな。」

とオコゼは言った。そうなのだ。その感覚はわかる。楽器は弾けないのだが、打ち込みである要素とある要素を混ぜ合わせる、という点においてはふたつとも非常に似ていた。

スパイスカレーは音楽にちかい。だからか、大阪では音楽関係がスパイスカレー屋を開くケースが非常に多い。

結局、俺はひとつのことをやり続けている。オコゼの言葉で、点が線につながった。

意思あるところに道がある。という言葉を信条に生きてきた。なぜなら、自分というものがわからなくて、苦しかったから。その弱さと向き合うために、やりたいことをやるようにした。

しかし、その道は困難で、岩石の山をジェットコースターで突き進むようなものだった。津山で店を開いて、不意のことで閉めることになり、横須賀に移り、1人になって、カフェをやるつもりがスパイスカレー屋になり、体調をくずしながらオープンまでこぎつけ、今も悪戦苦闘の日々。

しあわせについて考える少年

これが幸せなのだろうか、とお客さんがいない店内で、くたくたになった自分に問いかけると、そうとも言い切れなかった。自分の時間をほとんど捨てて店に捧げている。

幸せになる必要ってあるのかな。やりたいことをやっていると、苦しさも多分にある。パラドックスのようだが、幸せになろうとすると不幸が生まれる。それは、幸せが相対的な状態だから。

疲れすぎて、今日ばかりは休もうと、オープンの直前に思ったことは一度や二度ではなく、それでも、来てくれたお客さんに嬉しい声をかかてもらって、開けてよかったなと思う。

横浜はとっぷり夜に浸かっていた。天王町、19:28。ゆうき君がオクラを揚げ焼きにして、スパイスと和えたものを前菜にして食べていた。高橋さんが酔って陽気になっている。いつも俺と話して疲れさしてしまって申し訳ないと思う。

ゆうき君のつくるスパイスカレーは、hatisでの試作よりも、何段階か進化していた。試作段階ではストレートな印象だったが、この日は、カレーを口にした後に段階的に辛さ、旨味、甘味が訪れ、より複雑なスパイスな配合になっていた。お米も、十六穀米に変わっていて、健康というコンセプトに沿っている。私も同じことをしているからか、ゆうき君がやろうとしている意図が肌感覚で理解できた。

カウンターに立つゆうき君の佇まいも胸にくるものがあった。ああ、こんなにも人は変わるのか。

ゆうき君、俺はスパイスカレーで人を健康にすることができると信じている。俺はそのつもりでスパイスカレーを店で出している。だから、ゆうき君のカレーが今後より多くの人に届くだろう。すくなくとも、俺は魂を揺さぶられたよ。グラングランですよ。

心折れることが多々ある日々に、やった甲斐があったと思えた。21:30、帰りの相鉄線のシートで吊り革をながめながらそう考えていた。こんな形だとは思いもしなかったけれど。

〈hatis AO〉を選んだこの古民家も、自分が選んだものではない。スパイスカレー屋にしたのも周りがそう言い出したからだった。おかげで、素晴らしい出会いに恵まれた。

また日々がはじまる。またカレーつくってんのか、俺は。つくりすぎちゃうか、と鍋に向き合いながら毎度思う。ただ、自分がつくったもので喜んでくれる人がいる。楽しくもある。そうして自分が出来上がっていくし、ひとつのことをやり続けている。

やることはひとつ

津山で〈Jericho〉という古着屋をやっている近藤さんに、やすきさんはどこいっても変わらないでしょう、と言われたことがある。

なぜ、それをしているのか?

知らん。やりたくねえこともやんなきゃいけないし、しんでえけど、仕方ねえ。