読書とはなんだろう。
その問いが体中を駆け巡って、定期的に読書論に関しての本を読んでいた。
パターンとして多かったのは、いかに効率的に本から情報を吸収するかのメソッドだった。より短時間で、その本からどう情報を抜き出すか。
そのような本を読んだとしても、ああ、そうか、そうなのか、と思うだけで、腑に落ちることはなかった。
読書ってそんなものなのか。
灯火

それからも定期的に読書に関する本を読んだ。そのほとんどがどういったものか覚えていない。腑に落ちるものがなかった。
ふたつ、読書に関する言葉で残っているものがある。ひとつは児玉清のもので、「読書は心のどこかを耕すもの」。もうひとつは、敬愛する須賀敦子の「血肉にならない読書は意味がない」というもの。
このふたつの言葉を灯火にして、読書をすすめてかた。言い換えると、情報ではない言葉か心の栄養になっているし、また、能動的にそれを摂取しないといけないということ。
先日、大津の行政センター内の図書館に行った時、たまたまに目についたのが長田弘の本だった。
長田弘の本は、5年前に初めて鎌倉に訪れたときにも見かけたことがある。御成通りの珈琲屋、〈THE GOOD GOODIES〉で古本がいくつか置いてあって、その内のひとつが長田弘の本だった。タイトルは忘れた。
その場で買えばよかったのだけれど、少しケチってしまって、タイトルだけ覚えてあとでメルカリで安く買った。
その本は自分でカバーをつくって、大切に読んだ。わかりづらい内容だったが、その分、栄養が凝縮されていた。
津山の家に吉田省吾が遊びに来たとき、「お、長田弘の本じゃがん」と注目された。吉田は読書家なので、長田について知っていた。私は長田弘がどんな人物か知らない。
ウィキペディアで調べてみよう。長田弘は、ナガタではなく、オサダ、と読む。福島出身の詩人。主な著作に「深呼吸の必要」がある。この本は神戸の古本屋〈ワールドエンドガーデン〉のご主人が推していた本だ。店の手作りの冊子に書いてあった(神戸のおすすめの読書にいい場所も記されてあった)。
私たちは言葉で出来ている

店の営業中、暇な時に読んだ。目から鱗だった。読書について、腑に落ちるところがたくさんある。
以前読んだ長田の本に比べると、この本はとても平易でわかりやすい。まるで子供に言い聞かせるような文章だった。
昨今、日本人の読書離れが著しい、という紋切り型の提言からはじまり、読書の大切さについて説いている。
この文章のわかりやすさは、本に慣れていない人たちに向けて書いたからだろう。だから子供を諭すような言い回しだ。
いま、私たちは人類史上で最も言葉に恵まれた時代を生きている。SNSを通して、言葉の海に放り込まれ、言葉を綴っている。
だが、私たちは読解力をみがく勉強はさせられてきたが、文章を書く訓練はさせられていない。
TwitterやInstagramを見ても、日本語を正しく違いこなせている人は少ない。
私たちは、言葉でできている。会話で言葉を交わし、言葉を書いて伝える。
そのことに対し、なんと無頓着だったのだろう。
言葉がゆたかであり、言い表せる範囲が広ければ広いほど、SNS時代はたのしいと思う。
長田は本の中で、情報は持っている人と持っていない人を区切る、と述べている。そうではなくても、情報でない言葉がたいせつ、とも。
インターネットをやすんで、本を読み、自分と向き合う時間を能動的につくる。そのことが現代の日本人に必要だ。