葉山の〈マン・レイ展〉

midjourney (単語を指定すると、AIが高性能な画像を生成してくれるサービス)にハマって、美術用語をしらべるようになった。midjourneyは美術にも詳しく、美術用語を指定すればその通りに絵を出力してくれる。

例えば、マネのように描いてくれ、と指定すればマネのように描いてくれるし、ピカソのように描いてくれ、と指定すればピカソのように描いてくれる。

おもしろいのは、マネとピカソ、と指定すればマネとピカソどちらの要素もはいった画像を生成する。それはもはや新しい芸術を創造していることにならないだろうか。

AIに、生前のマネが描いたことがない南仏の街を描いてもらったもの。

もちろん、本人が意思を以て描いたものが尊いし、価値がある。だが、これを利用して、あたらしいものを作り出すことができるのではないかと考える。

余談だが、亡くなった奥さんの写真をAIに読み込ませて、新しい奥さんの思い出を作られている方がいる。みなさんはどう思われますか。

https://www.techno-edge.net/article/2023/01/06/688.html

SNSにもそうだし、珈琲を販売する際に使ってもいい。商用利用も可能だ。AIをつかってスパイスカレーや珈琲のパッケージングをするとなると、新しい。〈hatis AO〉の店内にもつかっているので、店に来られてさがしてしまったみてください。

美術用語を調べていくうちに、1人のアーティストに行き着いた。

ブルックリンの男

その名前はマン・レイ。ピカソと同時代を生きたアーティストで、写真、絵画、彫刻など、さまざまな方法で創作を試みた。その感覚がとても現代的で、とても気になっていた人だ。

本人は画家を名乗っていたが、美術史としては写真が評価されている。ソラリゼーションという、ネガを反転させる独自の手法を発明した。

上の絵はソラリゼーションとイラストを混ぜてmidjourneyで生成したもの。いままでにみたことのない効果になってた。影によって光を浮かび上げる方法が斬新だ。

横須賀中央図書館で、「マン・レイと女性たち」という本を借りた。太宰治のように、マン・レイの創作の影には女性がいた、という内容だった。偶然にも、私が足を運んだ葉山の美術館の展示も、同様のテーマだった。

マン・レイはユダヤ系の移民で、ニューヨークのブルックリンに家族と住んでいた。デュシャンと仲が良く、アメリカにダダイズムを先導する。

展示を見に行きたい、と思うほどに気になったアーティストはひさしぶりだった。しかも、midjourneyの出力をテストしていた時期に葉山で展示があった。年末年始に農業のアルバイトで奮闘したので、自分への見返りに行くことにした。

5年前、はじめて鎌倉へ旅をしにきた時も、神奈川県立近代美術館葉山館の前まできた。まだ葉山に〈cabon〉があった頃だ。〈鎌倉ゲストハウス〉に泊まって、宿で自転車を借りて、朝から葉山に向かった。生まれて初めての1人旅で、爽快な自由さを味わった。時期は5月だった。いまもずっと余韻がつむくほど、あの日の快晴は心地よかった。どこまでも空と海が青く、爽快に光っていた。このブログにも記録がのこっている。

https://hatisu888.wordpress.com/2018/05/21/鎌倉旅行記①%E3%80%80ねむたい朝/

あの時も、葉山美術館まで来た。たしかブルーノ・ムナーリの展示をしていた。だが、旅費をケチって入らなかった。入れば、素晴らしい記憶になっていただろう。

旅を終えて、津山に戻ってからも後悔した。このときの経験から、お金を惜しんで、行く機会を逃さない、という教訓を得た。

逗子駅から、一色行きのバスに乗り込む。真名瀬海岸をすぎ、一色海岸の手前のバス停で降りた。5,6人ほど連なる年配の方たちのグループが向かい側から歩いてきた。おそらく、美術館の帰りだろう。

美術館はわりとちいさかった。だが、展示の内容はかなり濃密だった。マン・レイの作品を保存する財団があるようで、マン・レイがアーティストとして活動を開始した時期はから晩年まで、時期を追って、貴重なものが展示されている。

目的だった、ソラリゼーションの展示もあった。実際に見てみると、画像で見たものと印象がちがう。すべてが当時のオリジナルではなかったろうが、鮮明だった。いまより技術が稚拙なはずの100年前の写真の方が、情報量が圧倒的に多いように感じるのは、なぜだろう。

余白

一通り見終わった。あまりの濃密さに、頭がくらくらした。展示室を出ると、マン・レイ展のほかに、、現代美術家の展示があり、覗いてみることにした。

体育館ほどの高さと、体育館の半分ほどの広さの部屋だった。部屋の大部分が陰になっていて、ひとつだけある窓から、光がひとひら差し込んでいた。光の奥に、葉山の海が穏やかに流れているのが見える。

部屋の中央に、大きな弧のテグスが吊るされている。あとは部屋の大きさに見合わない作品がぽつぽくと置かれている。窓の前には、ガラスの水差しがぽつんと置かれていて、どこか心許ない。もらったパンフレットによると、「母型」というタイトルだった。

マン・レイの作品群には、ひとつひとつ意図が感じられたし、詳細な解説があった。この作品はよくわからんというか、解釈の自由度がありすぎた。マン・レイもシュルレアリズムを標榜していたが、輪をかけてよくわからない。だけども、濃密なマン・レイの展示を、中和してくれているようでかえってたすかった。空間と意味に余白があって、ラクになれた。

展示室に、私と同じく、よくわからんなあとウンウン唸っていた人がいた。メガネをかけた年配の男性で、カーキ色のジャケットの下にネルシャツを着ていた。「よくわかりませんねえ」と私が話しかけると「そうですねえ」とニコッと笑って返してくれた。目の奥がやさしかった。

この男性を、ムナーリさん(仮称)と呼ぶことにしよう。ムナーリさんと展示品をひとつひとつ見て周った。床に鏡が向かい合わせで置かれている。壁の届かない高さのところにも、鏡がある。部屋の中央のテグスには、よくみるとちいさなビーズが施されていた。目を凝らせば凝らすほどよくわからなくなってくる。2人で20分ほど唸っていた。

別のお客さんが、部屋の入り口に立っている女性の学芸員さんに、「この部屋の広さに対してこれはなんなんだ」と怒っているのを見た。私たちとおなじく、展示の内容がよくわからなかったのだと思う。

美術館で展示の内容に対して怒る人を初めて見たので、それはそれですごいことではないか。

「もしかして、意味がないっていう意味の作品なのかもしれませんね」という仮説を私はムナーリさんに投げかけてみた。私は余白が気持ちがよかったので、意味に重きを置かなくてもよかった。ムナーリさんはそれでも納得がいかないようで、耐えかねるようにその場にいた学芸員さんに説明を請うた。

学芸員さんはさきほどのクレーマーには誤り倒していたが、私たちには展示品の意味を教えてくれた。どうやら、この作品たちは死後の世界とか、見えない領域をテーマとしているようだった。だから鏡も私たちの見えないところにあるし、大きなテグスも見えない部分に意味があるらしかった。ガラス瓶も光の移り変わりがテーマを表象しているらしかった。

私もムナーリさんも、その説明を聞いてなるほどな〜と手を打った。こればかりは、想像をめぐらせても意味に辿り着けない。

「私は美術館によく足を運ぶし、フェルメールが特に好きなんですが、こんな展示は見たことがない」とムナーリさんは仰っていた。

腑に落ちたところで、ムナーリさんと先程のマン・レイ展の感想を言い合った。話している内に、濃密な内容が消化できていた。

美術館に焼き鳥屋さんが併設されればと思う。初めて会った人でも、気軽に展示の感想を話しあえればたのしいし、美術がもっと身近になるのに。

ただひとつたしかなのは、マン・レイの写真の圧縮度も、シュールな現代美術の余白も、ムナーリさんとの会話も、AIには描けないということだ。

SNS時代になって、その場の空気を肌で感じることや、人と話すことがより重要になってきている。