農園のアルバイトが終わった。肉体には疲労が溜まりつつあり、倦怠感が浮かんでいる。
最終日は早上がりだった。午前中で終わった。せっかくの機会なので、津久井浜方面に出た。浜辺で寝っ転がって、海と空を眺める。時刻は昼の2時。1月の陽気が漂う。

弓なりに続く三浦海岸。金田湾を挟んで、千葉の房総半島が見えた。あちら側は金谷。久里浜からフェリーで40分ほどでいける場所だ。オープン前に旅に出かけようとしたが、時間と予算の都合で行けなかった。
手前には、キューブ状のコンクリートが波に打たれている。そして、足跡だらけの砂浜。
正月の浜辺には、ぱらぱらと人がいた。スカイブルーのダウンジャケットを来て、釣りをしている男性。器用に、釣り竿をふたつ、つかっている。どんな魚が釣れるのだろう。
子供を海に連れてきている夫婦。家族の写メをとっているのは、いつも母親だ。
シートを敷いて、独りで海を見つめる年配の女性。こちらに来てから、そういった人をよく見かける。鎌倉でも、三浦海岸でも。
ウィンドサーフィンをしている人を間近でみた。多色のビニール製の帆を手で動かしながら操作している。3人いて、3人とも同じ柄の帆であることから、グループでウィンドサーフィンを楽しんでいるようだ。1人が倒れて、帆が水面に浸る。そこから立ち上がって、リカバリーが大変そうだった。
金田湾は穏やかで、波の音が静かに響いている。カバンを枕にして、視点を空に。雲一つない、吸い込まれそうな真っ青な空。
ああ、自分はとても小さいことを気にしていたのだなあ、と感じた。煩わしい悩みが、晴天に昇っていく。
宝蔵院

寒くなったので、立ち上がって、駅に向かうことにした。途中、お寺があったので立ち寄った。お寺の目の前には、以前、お店だったようなボロボロの建物があって、サーフィンボードがたくさん並んでいる。
お寺の前には黒い碑があり、お寺の由緒について記されてある。1204年、天台宗の明円上人が建立したということだった。いまから820年前。私たちが産まれるはるか以前。ざっと目を通すと、最後に東部産業会社の社長が奉納した、とあった。それが目についた。
門をくぐると、赤い寺院と、右手にはお墓が見える。すると、「兄ちゃん、どっから来たの?」と話しかけられた。話しかけてきたのは、Kaepaの帽子をかぶった眼鏡のおじいさんだった。
おじいさんは、間髪おかず、ずっとしゃべっていた。三重の漁師の家に生まれたこと。三重では真珠が取れること。自身は会社勤めをして神戸と仙台にそれぞれ7年いて、最終的に横須賀に家を買ったこと。
歴史に造詣があって、この辺りのことも話してくれた。三浦市に城ヶ島という離れ小島がある。
「城ヶ島の雨」という歌があり、その中に通り矢、という表現が出てくる。それを、千葉の房総半島わ支配した里見氏が三浦海岸に来襲した際、放った矢のことだと思っていたが、地名だった、と話してくれた。調べると、地名の由来がそのエピソードから来ているとのことなので、間違いではない。
「城ヶ島の雨」は、倍賞千恵子の曲だった。ハウルの動く城の、ヒロイン役の声を演じた人だ。作詞は、北原白秋。
3ヶ月ほど三崎に住んだので、たしか城ヶ島行きのバスに、通り矢経由と表示されることを思い出した。白秋が自死を考えていたが、城ヶ島の見える風景を見て、思いとどまり、そこに住み着いた、と家の近くの碑にあった。
一通り話終わると、「じゃ、兄ちゃん、邪魔したな、ゆっくりしてってよ」と自分のタイミングでKaepaのおじいさんは去っていった。まさしく通り矢のように一方的なコミュニケーションの取り方だった。
あのおじいさんは、三重から出てきて、故郷に戻らず、横須賀を選んだのだ。住んだ神戸と仙台では、それぞれ阪神大震災と東北大震災があった。この辺りは、災害もない。
なにより、この穏やかな海と空が毎日見ることができる。終の住処に選んだ理由も、わかる気がする。