親指

満月を過ぎた。夜風が冷たい。

晩ごはんは、京急ストアで買い求めた半額の砂ずりと豆腐に、カレーを出汁で割ったものをかけて食べた。カレーを出汁で割ったスープは、お店で出せるくらい美味かった。

晩ごはんを食べて、一度、珈琲の焙煎を試して、風呂に入る。

風呂からあがって、寝室に入ろうとした。節電のため、家の灯りはあまりつけていない。寝室の扉を開けようとすると、足裏に電流がはしった。親指に、棘がささったようだった。

子供の頃、たまにこういうことあったよな、と思い出した。寝室の布団に寝転んで、左の親指を見る。棘は見つからなかった。どこかへ行ったのか。

ふと、既視感のようなものを感じた。そうか。自分の足の親指を見るのはとてもひさしぶりだったことに気づく。

遺伝の皮膚病で、子供の頃はよく足に怪我をしていた。よく、踝に水脹れが出来ていた。足をよく見る機会があった。

大人になってから、足の親指を見る時間なんてなかった。みなさんはありますか。

肉体

赤ちゃんは自分の手を見て笑ってたり、遊んだりする。あれは、現世で手に入れた肉体を観察して、慣れ親しんでいるのだと思う。

大人になると、物理的に時間がなくなり、自分の体を見るということはない。休みの日に自分の手を見て過ごしていました、なんて人がいたら君は大丈夫か、と声をかけてしまいそうになる。

だけど、肉体を眺めるくらい、自分のをケアしているか、と問われると疑問だ。自己の客観視が疎かになっているのではないか。親指に刺さった棘がそう教えてくれた。

試しに、手を見てみる。手の甲はそうでもないのだが、掌は皺が増えた。しかも、右手より左手のほうが綺麗だ。右手はさっき触った珈琲ポットのススがついている。

むかしはもっと、弾力にハリがあった。くたびれたようにも見える。手はその人をよく現すと言う。職人さんの手は頑丈そうで年季が入っているのがわかる。私も、少しは苦労できたということだろうか。

Face

好きなことをやっているせいか、顔は年齢の割に若い、と言われることがある。顔はその人の気をよく現している。

20代のころ、酒の席で中学のバスケ部の後輩のグループに再会した。その内、ケンゴという牡羊座の後輩とひさしぶりに出会った。

ケンゴはやっきくん、と私を呼んでくれてよくしてくれていた。試合にも出て一緒にプレイしていた。明るい人だった。

10年ぶりにあったケンゴは年齢よりひどく歳を重ねたように見えた。聞くと、家族が出来て、名古屋で働いていると言う。仕事も家庭も、ちょっと大変な状況だったんだろうなと、いま振り返ると推察される。

派遣の仕事でも、年齢は若いがそう感じさせない人もいた。20代前半でも30代のように見える人。そういう人は、大概仕事ができる。環境が大変だったとか、人より苦労が多かった人なのだろう。精神的な完成度が、表情に出ている。中には内面を顔を出さない人もいるけど。それは世渡り上手だな。技術。

特にいま、店のことばかり考えているからこそ、自分を整理する必要もあるし、手をかけた方がいいと思う。

私の無理を、この肉体はきいてきてくれたんだものなあ。労わってあげたい。心もね。

だから、自分に言葉を尽くしても、じっと掌を見なければ、月を指せば指を認む、ということか

お店と生活は、いつも月夜に米の飯、だけど。

むーん。