湘南移住記 第207話 『やるど』

水曜日。営業の買い出し。三浦産のキャベツが安かった。材料を白いナイロン袋に入れて持って帰る。県立大学駅からの坂道が重い。冬至も近く、18時でも辺りは真っ暗だ。家の方向の空に、北極星が一際、まぶしく輝いている。

夕飯の支度をする。野菜スープに80円のワンタン、卵を入れた。華やかなラインナップだ。玄米を2杯平らげる。玄米に米油を垂らすと美味しい。最近はだるいので台所でそのまま食べることにしている。

三年番茶を淹れて、疲れて寝入ってしまった。

夜12時。突然に電話が鳴った。こんな時間に電話が来るのは不自然なので、驚いた。なんの電話だろう。

電話には一度出なかった。鳴り終わったあと、番号を検索して調べた。ガスセンターからだった。まさか、と思い台所に行くと、ガス臭がする。火が燃え続けて、琺瑯ポットが空焼きになっていた。

火をすぐに消した。早くなった心臓の動悸がが聞こえる。手がすこし震えていた。危うく大事になるところだった。

ガスセンターに折り返してお礼を述べた。24時間監視していて、異常があると連絡をくれるらしい。日本に住んでいて良かった。

いままでこんなことはなかった。よっぽど疲れが溜まっていたのだろうか。確かに、今日は仕事中もしんどかった。

週7の生活が続くと、ほんとに危ない。危機感を強く感じた。春からの体調不良や病気とは違い、疲労の蓄積なのだが、積もり積もると大変なことになる。

出資

この出来事の前日、地元の岡山でBARをしている先輩に連絡を取った。先輩は投資で成功していたので、改装費を出資してくれないか頼もうとした。

ニシガーミーの奥さんが建築士で、改装の仕事を頼みたかった。店の看板をつくってくれたとき、私の気持ちに寄り添ってくれたので、もうひとつ仕事を頼みたかった。

早く連絡すればよかったのだが、先輩にお金の話をするのが気まずくて、先送りにしてしまっていた。

先輩は元気そうだった。まず横須賀で店をオープンしたことを報告した。出資を頼もうとしたが、先輩はその後、投資がうまくいっていないということだった。出資は厳しそうだった。先輩にはBARの経営もあるし、家族もいる。

諦めて、お互いの店の話になった。私は展望を語った。

「まだ平日は働いてるんですが、1年かけて店1本化にしようと思っています。」

と話すと、先輩はこう返してきた。

「甘いぞ、中山くん。1年じゃおえるまあ。半年でやらんと。俺なら3ヶ月でやるぞ」

熱いこと言ってくれるじゃないか。この返答はとても嬉しかった。無理だろう、とか否定せずむしろ早くやれ、と焚き付けてくれた。この先輩と縁が続いてて良かったなあと心から思った。

去年末、神戸の友人、もとすけが会いにきてくれて横浜で飲んだ。もとすけはスタークラブという高架下のライブハウスの元店長で、いまは間借りのBARを経営している。スタークラブは歴史のある箱だったが、もう閉めてしまったらしい。

横浜駅の近くにあるスタンディングの酒場で、賑わっていた。仕事終わりにのサラリーマンでごった返している。

威勢のいい店員さんに案内され、割って入るようにテーブルで飲んだ。私は日本酒、もとすけはチューハイかなにかを飲んでいた。私は皮膚が痒くなるのでチューハイを飲むことができない。

「やすきさん、お互いに次の段階にいかなあかんっすね」

ともとすけに言われた。

もとすけは既にBARだけで生活していた。安定しているようだった。それだけでなく、もとすけのブレーンにあたる人がいて、その人も含め食べていかないと意味がない、と話していた。

以前は自分が楽しければいい、というスタンスのもとすけが、変わったと感じた。自分の周りの生活のことも考え始めている。

もとすけは次の段階に進んでいた。私は?

意味

自分だけではなく

家の相続のことから津山の店を閉め、ここまできた。その間も、移住費、猫の手術代、店の資金と、お金のことがずっとつき纏っていた。手術が必要だった飼い猫のアストラッドも亡くなった。そして1人になった。ただ、店は開くことができた。

お金があれば、すぐ行動できたのだが、どこかで働くことによってしかお金を作れなかった。店の売上だけでは足りなかった。

このまま店1本で食うことができれば、身内のカルマを精算することができる。

自分の力で場所をみつけ、考え、行動し、動かすこと。

相続のことは忘れたので詳しく書かないが、そのことが私に取って必要だった。やり遂げれば、私には言えることがある。

いま、仲間を増やしながら店を進めている。自分がどのように店に協力してくれる人もいる。その人たちに何か返さなければいけない。

お金を回す。自分だけでなく、周りも。

そして、津山や横須賀に還元する。

でないと意味がない。


お金を作るために企業で働くことは、学びでもあった。仕事を与えてもらったことはありがたかった。

だけど、次の段階にいく必要がある。平日に8時間、拘束時間9時間。通勤を合わせて1日に10時間だとすると、1週間に50時間。月で200時間。

200時間を珈琲やスパイスカレーにつぎ込めば、どれだけ進化できるだろう。

ただ、そこまでの実力が今の私にはない。

2年前、祖母が亡くなる前の日。ホームに入っていた祖母に最期に会うことができた。なぜかその時、祖母と祖父が起こして、父と母が受け継いだ会社を、自分がやっていくことが使命だとわかった。

いまその会社は母がやってくれている。

私は経営者として力をつけなければいけない。自分と、自分の家族と、いっしょに働いてくれる人も。

店をしていて1番の喜びは、お客さんが店で知り合って、なにかが生まれるとき。

つくることは子供の頃から絵を描いたりしていて、ずっと続けている。

だから、自分の人生は「つくる」と「つなぐ」なのだと思う。

それが喜びだから、それを仕事にする。

やりたいように

先輩の言葉で、店の1本化まで長期戦は止めようと考えた。消耗を続けるのは状況としてはよくない。日本代表がクロアチア戦で負けたのは、格上のスペインとドイツにハードなプレスで対抗し続け、消耗が激しかったというのも一因だろう。

まったく時間がないわけではないんだけどね。こうやって文章を書く時間もあるし。時間をつくるようにすればエデン横浜にも出かけれる。人と出会える。

火のこともあって、肚をくくって早く週7から抜け出すことにした。

もっとやっている人もいる。

けど、これを2、3年続けろと言われても、できない。体がもたない。

休むために、売り上げをだそう。

Wi-Fiとウーバーイーツの申込を済ませた。ストーブを購入して、メニューを決めれば、夜営業ができる。ECを動かせば利益が出る。

Googleマップに店の登録をする。アルパカさんが撮ってくれた駅から店の動画案内をあげる。

集客もそうだし、スパイスカレーや珈琲を研究して腕を上げればお客さんも喜んでくれるし、私も嬉しい。

とにかく、今の状況を変えれるかどうかは私次第。おっと、楽しんでやっていこう。icoi baseさんを思い出して。せっかくやりたいことやってるし。素晴らしい人たちとも出会い続けている。

この2年は辛かったので、来年は楽しもう。いい年になる気がする。