湘南移住記 第154話 「空白」

木曜日。寒さが退いて、春めいてきた。歩くと、遠目に桜が咲いているのが見える。そちらはどうですか。

朝、目が覚めても、起き上がれない。駅に向かうことがイメージできない。尿道結石の痛みはなかったが、体力、気力ともに使い果たした。頭痛が出るほど働いたので、無理の反動が来たらしかった。

なにもしない一日

申し訳ないが仕事を休ませてもらった。お金も稼ぎたいので、1日分の収入がなくなることは痛手だ。

だが健康を取ることにした。このままでは店を開くことが永遠にできない。

本当に、何もしなかった。仕事も改装も店のことについても、何も手をつけなかった。ひたすら寝て、ご飯をつくり、横になっていた。そんな1日はひさしぶりだ。

矢地祐介選手のチャンネルが起点となり、各流派で交流が続いている格闘達人系YouTubeをあがっているのをほぼ全部見た。

各流派の奥義は同じことを伝えている。脱力して、効率よく力を伝えるということ。極めていくと、筋力を使わず最小限の力で相手に伝えることができる。

これはきっと文章も同じだ。私は冗長に書いてしまうが、一文字単位で切り詰めて、やっと面白いと感じてくれる。

1番面白い達人は日野晃先生。わかりやすいのがこちら。

日野先生は思想をわかりやすく伝えてくれる。ここまで身体操作に長けていると、コミュニケーションもわかりやすくなることがわかる。

関係

日野先生から学んだことは、人間はすべからく関係から成り立っていること。これは気づいてなかったかもしれない。

すべてのことはうまくいかない。なぜなら、相手の意思があるから。例えばこれを読んでいるあなたがこれから10コの会社に勤めるとします。すると、10の会社にすべて通用するやり方というのはない。10通りの癖があるから。やってみて共通するなにかを見出していく。

私もこの一年、派遣ばかりだが働いてみて感じたことがある。仕事ができる人に共通していることは、コミュニケーションが上手いということ。自分だけでなく周りに気遣いができる。

これが社長、ないしは、マネージメントをしている人のコミュニケーションが下手だと、大体うまくいってない。私がこの一年で働いた職場は明らかに2つに分かれていた。軌道に乗っている会社は内部の人間関係がいい。なにか問題が発生しても、みんなでそれを乗り越える力がある。

逆に、コミュニケーションがうまくいってない会社や職場は、一見うまくいってるようでも、ヘヴィな問題を抱えている。お客さんとの信用に関わることを平気でやっていたりする。数値を目標にしている会社はこの傾向が多い。

誰もが知ってる大きい会社でも、なにしてんねんと言いたくなることがある。小さくても、しっかりした仕事をしている店がある。世間は前者をもてはやすけど、人道の視点でいうと、評価されない後者を応援したい。

津山に帰ったとき、町中の人がやたら人間関係を気にするなあと感じた。遠目からみると、自分に関係する場所の中だけ異様に気にしていて、関係ないところは知ろうともしない。例えば私の実家は津山で3代続いている会社だが、吉井川を隔てた橋を渡ると商店街の人たちは誰も知らない。

1年勤めさせてもらったアートギャラリーのPortも、津山内部の人にほとんど知られていなかった。あんないい場所なのに。

みんなチェーン店は好きなのだが、自分の利害に関係しそうにないとこには残酷なほど興味を持たない。

横須賀の人は横須賀が好きなので、出来る店はすごいチェックしている。神戸も全員とは言わないが、そういう傾向だったかなあ。神戸の人も神戸のことが好きだ。口には出さないけど。

だから、私は生まれ故郷の人間関係に合ってなかったのだと思う。3箇所目の居場所、神奈川で暮らして確信に変わった。

だけど、なにか目新しい学びがあるたびに津山にあてはめたらどうかと考えるし、いつも気になる。津山が好きなのだろう。

合ってないというのもなにか理由があるはず。

自分を軸に、巻き込んで良い相互作用が生まれるか。あるいは、自分を手放し、利他に努めるか。

相手がいて私がいる

私が仕事がうまくいかなかったのは、相手を理解できていなかったから。理解しようとしていなかったから。仕事に限らず。相手も私のように感情を持ち、その揺れ動きの中で暮らしをしている。

格闘、つまり相手を破壊する行為に長けると、相手を修復することもできる。実際、躰道の中野先生は整骨院をされている。

私が津山でhatisを始めたとき、直にお客さんの反応があって嬉しかった。私の拙い珈琲を美味しいと言ってくれる人もいれば、子育ての合間の息抜きができていいという人もいた。誰かの日常に役に立てて嬉しかった。

自分がカフェをやりたい、という理由で始めた極私的な空間だった。だけど、津山を盛り上げようとかよく話し合った。試みもたくさんした。

だれかの役に立ちたいだなんて考えたことがなかった。いつも自分、我が先んじていた。

振り返って申し訳ないが、元女将の珈琲に対する考え方も偉大だった。今思えば。人に寄り添う珈琲を淹れたいと話していた。あの時は言葉でピンと来ていなかったが、今は少し理解できる気がする。

社会という複数の流れの中で自分は生きている。お互いに心地よく生きていくために、守らなければいけないことは何か。

相手を見ているか。

自分のエゴを手放してでも、相手を愛する事ができるか。

決めつけずに、周囲的に考えることができるか。

1人が楽だからって、心を許していなさすぎじゃないかなあ、今。なんか違う気がしてきた。

バランス

少なくとも、立ち上がれないくらいオーバーするのは違う。行き過ぎている。

どこかが偏り過ぎていて、バランスを失っている。焦っている。気持ちを落ち着けて、長期的な視線で取り組めばこんなことにはならない。

やりたいこととやるべきことは決まっているから、それを計画的に繰り返すことが必要だ。それでも想定外のことが起きてしまうのは、この2年で散々味わったが。

計画というか、対応力だった。必要だったのは。自分の生き方の根本を見直す必要もあった。

効率よくとは言わないが、行動にも移した。あとは見栄張らないことか。

俯瞰

自分のある一点だけに囚われいる。大局というか、全体の流れで俯瞰してみる。役に徹する。

高校受験にしても、ニッチに覚えていくんじゃなくて、出る要点を把握すれば良かった。競走だし。めちゃくちゃニッチな歴史年表を買ったけど、結局使わなかったもんなあ。地理を教科書まるまる覚えようとしたけど、時間効率がすごく悪かった。

音楽にしてもそう。誰も知らなさうなニッチなアーティストばかり探してたけど、まずは偉大なアーティストから聴けばいいわけだし。いい音楽体験をしようとすると。ただ、音楽の価値は知名度ではない。そこは見極めなければいけない。

丁寧に挨拶して、丁寧に相手の耳を傾けて、丁寧に言葉を交わす。

元女将は、愛に溢れていた。それがわからなかったなあ。なんか、成長ばかりに目がいっていた。それは過去やら未来やらの比較で、現時点を見過ごし過ぎていたということになる。

今日も雑な内容になってしまいました。考えをまとめて、わかりやすいよう書きます。