ことばについて

『シュトヘル』という漫画作品があった。チンギス・ハンに滅ばされた西夏王朝を題材にしていて、テーマが「文字」だった。

ユルール

主人公のひとり、ユルールは滅ぼされた西夏王朝をルーツに持っており、しかも同時に、西夏を滅ぼしたチンギス・ハンの血も流れている。ユルールは西夏文字を守るために生まれ故郷を離れ、命を追われる立場になる。幼い少年であるにも関わらず。

なぜユルールは亡国の文字を守りたかったのか。ユルールは言葉に、人々の想いを見出していたからだ。戦争に行って亡くなる人、平凡に暮らし生きる人、歴史に残らない人でも、想いを持ちながら生きている。

識字率が低かった当時、例えば日記を書く術を持つ人は少なかっただろう。ユルールは、だれもが文字を扱うことができ、想いを言葉にできるようになればどんなに素晴らしいだろうと希望を持つ。後のTwitterやSNSを予見させるものだ。

だれでも、つたえられる

ユルールの生きた時代から比較すると、現代は進んだ。ユルールの夢は1000年後に叶った。日本では全員が字の読み書きができ、スマホを通して発信もできる。知らない人の日記も読むことができる。

今日も、まったく知らないバイク好きのおっちゃんが静岡の漁港にアジフライ定食を食べに行った、という言葉の連なりを読む。浦和レッズに所属するキャスパー・ユンカーというサッカー選手が、京都サンガに所属する元ナイジェリア代表のピーター・ウタカ選手を気にしている、という言葉を発していたと知る。

私は知っている人と会っても『シュトヘル』の話をすることはほとんどない。すでに連載は終了していて、どちらかというと知名度のない作品だからだ。共有ができない。

だが、blogではそれを表現することができ、「ことばについて考える」とうことばを残すことができる。

DJをしているとある先輩が、「音は、一発やからな」と言ったことがある。この言葉はとても胸に残っている。

つまり、音楽だとその人の感性、趣味趣向が一発でわかってしまうということ。DJで、一曲レコードをかける。そこで合うか合わないかが瞬時に判断できる。これは、鳥が群れでいる時、外敵からの脅威を一瞬で共有できるような、テレパシーに近いものだと思う。音楽は、物質世界のひとつ裏側にあるものだからだ。

ところが言葉だと、いくつも重ねないと理解できない。初めて会う人がどんな人物かを理解するまでに、どれだけの言葉が必要になるだろう。

音楽を例に挙げているが、絵でも、写真でも、陶器でも、体の動きでも、そう。

インストでの表現を得意としたヒップホップ・アーティストのNujabesは、たしか1st Albumの中敷に、『言葉はフィルターがかかるがら音像は素直に伝わる』というようなことを言葉少なに書いていた。

「海」、とこのことばに何を思い浮かべますか。真っ青な海、夕暮れに染まる海、中には夜のおどろおどろしい真っ黒な海を連想する人もいるかもしれない。

フィルターとはそういうことで、その人の感性や経験、価値観が関わってくる。なぜなら、言葉には思考が伴うから。

言葉そのもの以上のことが伝わることがある。それを解釈とも呼べるし、誤読とも言う。すくなくとも、言葉がその人から離れて、違う誰かが触れることで、何かが生まれる。私の文章で、なにかを感じ取ってくれる人もいる。

Nujabesのように、言葉で伝えるのが苦手だった人もいる。私は言葉がすきです。音も好きだけど。

昨日の私はもういない。今日で、すでにもう変わっている。だけど、今日、私が書いた言葉は、その時の想いは、ずっと残ってくれる。このサイトが消滅しないかぎり。『シュトヘル』は、ユルールのこんな言葉でラストを迎える。

随筆、格言、経典、詩歌、目録、そして手紙ー

西夏国そのものよりも長く生きた文字たちは 多くの記録を残した。

多くの出来事を、大奥の心を。

記された文字はそれだけでは語らない。

人が、ふれてー 

そこに、出来事と心が生き返る。

何度でも。

だから、

人をいつも静かに 文字は待っている。

先日、岩井ゆきの歌集『白雲』を手に入れた。素朴だが、青と白の装丁も、収録されたことばも、美しい本。

そこからひとつ、花の句を引用させて頂いて、今日の言葉のつらなりを終えます。言葉以上の言葉に、みなさんは何を感じますか。

艶やかに命終わらむとする八重椿拾ふもろ手に紅あふる