読書について

新宿の〈紀伊国屋書店本店〉に行った。奇妙なことに、「人間って、こんなに言葉が必要なんだなあ」と、広大なフロアーを目の当たりにして感じ取った。

読書は、人間にどういう影響を与えるのだろう。

私が意識的に読書を始めたのは高校の頃。受験に失敗し、授業についていけなくなった頃(不思議なことに高校以降、あらゆる授業を受けても頭に入らなくなった)、ある日突然に本を読みたいと思った。

本を読みたい欲求は、どこから来たものだったのだろう。ふっと降ってきたように沸いてきた。

父の存在

が、その時は何を読んでいいかわからず、父に何を読めばいいか訊いてみた。すると、父は車を走らせて私を東津山のブックセンターまで連れて行った。その本屋が津山で1番大きい書店だった。

父の一家は読書一家だった。祖父も祖母もいつもなにかしら本を読んでいた記憶がある。母には読書の習慣はなかった。読書はカッコいい、という風に思っていた。

父は、ジャズのディスクガイド、推理小説を好んだ。「ミュージックマガジン」誌のバックナンバーが実家には山のような積まれてある。音楽評論家の中村とうようを尊敬していた。2011年7月21日に中村とうようが東京都立川市のマンションの8階から飛び降り、自死した際はたいそう驚いていた。7月21日は父の誕生日だった。

父に選んでもらった本は芥川龍之介の『羅生門』と川端康成の『雪国』の文庫本だった。今でも覚えている。どちらも当時の私にはつまらなくて、読むのを最初の数ページで辞めた。

その本が読めるかどうかは、著者と自分に縁があるかだと思う。つまり本は、人の出会いに等しい。著者が作り出した世界空間に没入できるかは、読み手の人格による。

川端康成は、その後、友人に『掌の小説』を勧めてもらって読み始めた。これがまたおもしろかった。文章が端正で、無駄がない。削ぎ落とされている。ただ、頭が回りすぎて怖い部分がある。

芥川と川端には馴染めなかったが、祖母宅に全集が置いてあって、目についたものから読んでいった。赤い背表紙の全集のシリーズだった。

病の表現

まずは夏目漱石から手をつけた。もちろん、『猫』が最初。これがまたおもしろかった。初期の夏目はギャグもあって読みやすい。たしか野球チームのくだりがあって、その場面が良かった。『草枕』でも、主人公が髪を切ってもらうシークエンス、理髪店の親父と江戸言葉で言い合うとこはギャグだった。

夏目漱石の奥方、鏡子夫人が述懐した『漱石の思い出』という本がある。この本によると、漱石は英国から帰国後、日本で神経症を二回発症している。

一度目は本当に漱石が自分自身を絵描きだと思い込んでいた。もちろん、その時期に書いた作品『草枕』。

草枕は画家が絵が描けず旅に出る話だが、作中一度も絵を描く描写がない。ずっと独り言を呟いている。その独り言がキレキレで、ずっとおもしろい。私は、この男が漱石のように、自分が絵描きだと思い込んでいる男という設定にしている。

私も漫画家になりたくて絵を描き続けていた時期があった。絵を描くことは、自分の傷を癒していることにもなるのだろう。

英国留学の経験でプライドを傷つけられた漱石は、絵と言葉を表出することで心を埋めていた。その傷から産まれた狂気が作品をおもしろくする。

梶原基次郎にしても、太宰治にしても、庵野秀明にしても、あるいは初期のMSCにしても、心の病に罹った人の表現は素晴らしい。キレキレだ。音楽も、悲しければ悲しいほど良い。人の業によるものか。

そこから、谷崎潤一郎、坂口安吾と読み進めた。谷崎潤一郎も人生の節々で現れる作家。『刺青』という中編作品が刺さった。

全集に飽きて、現代の作家を読んでみたくなり、村上龍に走った。『インザミソスープ』や、『ヒュウガウイルス』、『オーディション』。

『オーディション』は、主人公の男が息継ぎもせず数ページにわたって喋るシーンは、よくやってんなあ、と思ったものだ。

そういえば、『バトル・ロワイヤル』も中学生の時に読んだ。流行っていた。Dragon Ashの『静かな日々の階段を』が使われていた、映画のエンディングが印象的だった。小中は漫画が大好きだった。

だが、しばらく悪夢をみるとき、きまってバトルロワイヤルに巻き込まれるものだった。あれには参った。あとは、実家の目の前にあった吉井川が氾濫する悪夢。

たぶん、私はずっと不安だった。今はそれがなくなった。不安な状況に変わりはないのだが、行動で立ち向かうことを覚えたからだ。

何を得るかは自分が選ぶ

よく本を何冊読んだ?という質問があるが、とても意味がない問いだ。例えば一冊しか読んでいなくとも、経験と一緒で、そこから学ぶことができれば、身になっているということ。私が好きな須賀敦子も、『血肉にならない読書は意味がない』と書いている。

大学時代は哲学をかじり、挫折して、ヘッセにハマった。20歳から頭が回らなくなって、本が読めなくなった時期があった。それでも、自己啓発書を読んだりはしていた。仕事ができない原因を探したが、自己啓発書はあまり身にならないことに気づいた。

そこからも様々な本を読んだ。読書は、いったい何をもたらしたのだろう?

一つ言えることは、読書は、自分の考え、世界観を形成するのに欠かせないものだった。人一人が、人生を削って編んだものは、なにかしら残る。どう受け止めるかは読み手次第だが、書き手の魂に触れることで、何かが生まれる。解釈は誤読、と何かで読んだが、生まれる何かが大事だ。

文学を読んで、私に何が産まれていたのか。Port在籍時、ポール・オースターが気に入り、いくつか読んだ。村上龍もそうだが、ざらついた質感の世界が好きだった。

著書と私の心の傷の角度が似ていたら、縁があるのかもしれない。私の場合は、父がアル中だった。父に関するトラウマがある作家には惹かれる確率が高い。

その人の世界に触れることは、自分の世界の奥行きを増すことに繋がるだろう。現実世界での経験によって学びを得る人もいれば、架空の世界から学ぶ人もいる。共感することで心の幅をふやしているのか。

優れた本は自分の心のどこかを豊かにしている。見えない心の、どこを耕しているかわからない。何が芽生えてくるかわからない。だが、心を庭園として、色彩は豊かになっていく。

読書に私の本領がある気がする。もっと色んな本を私は読んだ方がいい。分野を問わず。デザインやアートブックも。

あなたも、この文章を読んで、実りがあることを願います。