短編 : ホンビノス貝

男は神奈川県相模原市から来ていた。名前はゆうだいと言った。数学の講師として都内の予備校に勤め、10年になる。見た目は細く、清潔感もあるが、生来の神経質も手伝い、いまだに独り身だった。

緑区のワンルーム、家賃は57,000円。生まれは大和市だったが、地元のしがらみが嫌って相模原市に越した。相模原市では人間関係を作らず、静かに暮らしていた。2020年春からのコロナ禍の影響がその傾向をさらに加速した。大手を振ってでも、独りでいられることに安心した。会社の飲み会への参加を断っても怪訝もされない。誘い自体がなくなったのだから。静かな部屋で数独を楽しむ機会が増えた。心が穏やかになった。リモートでの仕事も増えた。

コロナ禍で気軽に人に会えなくなった。世の中は悲しんでいるが、一方、人に会うこともなくなり喜んでいる人たちも少なからずいた。付き合いが過剰だったのかもしれない。

ゆうだいは休日に神奈川県下のとある海沿いの街に来ていた。電車で1時間半はかかっただろうか。車窓からの景色を見ながら、思考を消すことが好きだった。

午後3時。海が臨める公園で読書をしていた。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を3分の2まで読んだ。劇中のホルヘのように、書物にストイックにはなれなかったが、幼い頃から活字には親しんでいた。読書に、自分の本領があるとも感じていた。

目が疲れたので本を閉じ、革のカバンに入れ、散歩をした。公園の近くに、漁港があった。だれでも入れる直売所があり、覗いてみた。

たくさんの魚が並んでいる。ゆうだいはその中から、ある貝に目が留まった。見た目は蛤のようだったが、値段が安い。一袋に貝がぎっしり入って450円とある。横にいた漁師らしき人が説明してくれた。

この貝は蛤ではなくホンビノス貝というらしい。外来種だが、千葉で大量発生しており、地元の漁師が困って安価に売りに出している食べてみると案外旨味がある。

ゆうだいはたくさんの袋の中から一つを選び、買い求めた。そしてそのまま海の近くまで行った。その袋を手に取ったのにはある理由があった。

選んだ袋の中の一つの貝が、直感的に、4年前に亡くなった彼の母親が生まれ変わった姿だと気づいた。輪廻転生の末、2人は再び会うことになったのだ。ゆうだいは母の生前、とあることを謝ることができなかった。それを心の底で食い続けていた。重石のようになっていた。

ゆうだいはホンビノス貝にごめんなさい、と謝ったそれから袋から貝を出して、海に放った。時刻は17時をちょうど回ったところだった。

それからゆうだいは、女性と出会い、世帯を持って、幸せに暮らした。