「日記のナルシシズム」。目次の言葉にドキッとした。
私は大学生から日記を書き続けている。講義中、あまりにもヒマだったのでノートをとっているフリをして昨日あったことを書き綴った。
授業に熱心な生徒に見えたらしく、知らない学生から「ノート見せてくれませんか」、と言われたことがある。もちろん、書いていたのは講義の内容ではないから、「すいません、これは日記なんです」と正直に白状した。
犬養家の縁
この本の著者、犬養道子はカトリック信者だ。キリスト教信者で女性作家というと、須賀敦子を思い出す。そして、第29代内閣総理大臣・犬養毅の娘でもある。犬養毅は岡山県出身で、神戸中華同文学校 の校長を勤め、神戸にも縁がある。私ともリンクしているようだ。
「日記のナルシシズム」という項には、日記を書く危うさについて書かれている。日記上で自己憐憫に陥ってしまうと、自我中心・自我の内に閉じこもることになってしまう。この本では、心を開くことが人間の幸せだと説いている。

しあわせとはなんなのか
このwebマガジンで私は湘南移住記という日記を1年近く連載してきた。自分の気持ちの整理のために書いていたが、読んでくれる人がふえるにつれ、わかりやすい文章を書くように心掛けた。自分の状況を晒すことで、心を開いたつもりになっていた。
だが、ある意味で自分が陥った状況に酔っていたのかもしれない。考えると、いままでの人生の大半がそうだった。高校受験で志望校に落ちてからというものの、全世界の不運を背負ったように感じ、私より可哀想な人はいないと思っていた。これは、明らかな自己憐憫だ。心を閉じていた。
生きるために
思い込みはさらなる不幸を呼び込む。無意識に不幸であろうとするからだ。
神戸に出て、ヒップホップをやるようになってから、心を開き続けてたが、まだどこか開ききっていなかった。
また、怒りや嫉妬の想念に気をつけろとも書いている。具体的な行動に移さずとも、普段抱いている想念は私たちに大きな影響を及ぼす。
口にする言葉や、口にする食べ物にも気をつけなければいけないが、想いもそうだろう。ずっとひとつのことにループし続けている人もいる。
自分が不幸だと酔うことをやめ、前向きにやることをやっていくことが人生を生きることではないか。
35年生きてきて、やっとそう思えるようになった。自我中心に生きていると、どうしても苦しくなる。いや、自分を苦しくしているのは自分だ。
だから、日誌も客観的に淡々と書いていく必要がある。あまりにも情動に駆られすぎると、読んでくれる人が文章に入る隙ができないからだ。文章は客観的に書いてこそ、のちの自分が読んでも語りかけてくれる。
心を開く不断の努力と想像力。
コロナ渦やインターネットで閉じつつある、私たちに必要なこと。自分だけラクして生きようとか、他人を責めない。許して許して許して生きていきましょう。