湘南移住記 第七十五話 「恐れず進め」

驚いたことに、新しい店をやるにあたって、恐怖心が沸いてきた。上手くいくのだろうか。頭には、ダメだった場合、どう働くかのイメージが浮かんでくる。

毎朝、ふたつのルーティンを加えた。ひとつは、家から歩いて3分の神社にお参りすること。ふたつ目は、いいイメージをすること。庄原がうまくいって、2、3年で東京に3店舗は出すイメージをしている。

元来の臆病さ故か、ネガティブなイメージはどんどん自動的に浮かぶので、いいイメージをしておく。脳は不思議なもので、無意識下でイメージ通りになろうとする。その習性を利用して、荒唐無稽でもいいからよい想像をしておく。信念になるくらい言い聞かせる。言い換えると、自分を信じる。いままでの自分に出来なかったこと。

環境を変えると、いままでに出てこなかった自分の一面、特に弱さが出てくる。恐れを乗り越えた先に喜びがある。

休みなので、鎌倉に出かけた。出かける前に、勤務先に提出しなければならない、マイナンバーの手続きをする。1ヶ月前、神奈川に来る前に津山のラムーにある証明写真機で手続きをしたのだが、まだ届いていない。自分のマイナンバーを知りたいだけなのだが。

マイナンバーの事務所に問い合わせてみると、発行手続自体は進んでいるようだった。だがマイナンバーは教えてくれない。津山市の市役所に問い合わせろ、と伝えられる。津山市の市役所に問い合わせると、住民票を請求しなければいけない。

ややこしいのは、私のミスで、転出届を紛失してしまっていること。つまり、私はどの自治体にも籍がない状態。住民票を請求できない。

仕方なく、実家の母に頼み、転出届を再発行してもらった。役所の融通のきかなさに苛立ちを覚える。お前らが勝手に作れつってるマイナンバーが知りたいだけやんけ。

用事を終えて、トマトとキャベツのパスタを作った。炊飯器がないのでこのところパスタばかり作っている。仕事が飲食で、賄いが出ているので、食費はかなり浮いているのだが。

自転車で出発する。引橋の少し行ったところにある、〈充麦〉という三浦で有名なパン屋さんで夏野菜のジェノベーゼパンを買い求めた。昼食はこれだけ。店内に、大きさのちがうJBLのスピーカーが設置されていた。重低音がしっかり出ている。音質にこだわるということは、この店の方は感覚でパンをつくっていることが推察される。音がいいのは、最高だ。

この日は、体が重かった。いつもより自転車が飛ばせない。新しい仕事が、体に負担がかかっているからだろう。朝5時に起きて、昼に帰って1時間寝て、ふたたび出勤して帰ってくるのは夜10時。働かせてもらってるだけでありがたいのだが、きつくもある。頭痛が走る時もあった。延長はせず、1ヶ月で切り上げよう。

ハードワークを乗り切るため、自分へのご機嫌伺いに、鎌倉に出かけたのだが、道のりがすこし辛かった。

しかしそれも鎌倉の空気で吹き飛ぶ。海岸橋、つまりビーチの近くにある〈Seagreen〉というカフェでチルした。この店はほぼ通り面したテラス席があり、シナモンスパイスの入ったティーラテをお供に、時間を過ごした。

疲れが溜まっていたのか、席に着くと眠ってしまいそうだった。鎌倉の空気は私をときほぐしてくれるが、今日の効果は絶大だった。気持ち良すぎて、自転車を漕いでる途中も眠りにつきそうだった。

隣の女子2人が、あれでかわいいと思ってんのかね、という会話をしていた。カフェではどうも話が耳についてしまう。あまりつんけんされると気が休まらない。だが、私が座ってしばらくすると声のトーンを調整してくれた。気を遣ってくれてありがとう。

都市型の、お洒落なカフェだった。内装の参考になるものはないか観察してみると、入口の大きなサボテンが目についた。hatisでも、エースくんのお店やたなかまるさんの協力で植物をよく置いていたが、雰囲気がよくなる。三浦市に植物を置いている店はないだろうか。大阪・茨木の〈The Firm〉にも行ってみたい。

湘南移住計画の鈴木さんにも教えてもらった、北鎌倉の〈喫茶ミンカ〉に行く。3年前、鎌倉を去る時、北鎌倉の空気を感じたくて大船まで歩いたものだった。その時に通りかかった布団屋さんを見て、記憶が蘇る。

〈喫茶ミンカ〉は道沿いに奥まった路地にあった。人気店のようで、私の前に女性が何人か店に入っていく。ここが喫茶ミンカですか、と訊くと、はいそうです、と応えてくれた。

素敵な庭を通り、店内に入る。古民家を改修はさた店で、細部に至るまでアンティークが飾られている。乙女の夢を詰め込んだようなお店だった。

たが、珈琲はネルドリップと骨太で、手作りプリンと共に注文。この間、渋谷で飲んだネルドリップは苦味の引く速さに技術が光っていたが、このお店のネルは苦味の滞留時間がちょうどいい。香りも良く、好みの珈琲。

隣の女性2人が介護の話をしていた。店によって年齢層が違うから、話の内容も変わっていくのがおもしろい。

自転車でさらに進む。北鎌倉の特別な空気は、小袋谷の交差点で終わるようだった。そこからは大船の雑多な空気感がはじまる。

ゆるやかな坂を降りていくと、モノレールが出てきた。3年前、初めて鎌倉に来た時に泊まった、〈鎌倉ゲストハウス〉の近くまで来ているようだった。

鎌倉の山の中で、行き方がわからず、駅の人に聞いてバスに乗り込んだものだった。チェーン店が多い道路を進むと、梶原に着いていた。一本奥の筋に鎌倉ゲストハウスが見えた。

過去の記事にもあるが、鎌倉ゲストハウスに泊まったことが鎌倉を好きになった要員でもある。ゲスト同士の交流があり、素敵な夜を過ごした。寝室から聞こえる子供たちの声が記憶に残っていた。改めて見ると、公園だった。

公園のベンチで一休みしていると、ネイビーのパーカーとネイビーのスニーカーを履いた少年が入ってきた。少年は、公園の木に登ろうとしてやめて、水をのんで帰っていった。どこか恍惚とした表情だった。

三浦に住んでるとつい忘れがちだが、自分はいま神奈川に住んでいるんだ、と実感する。鎌倉が特別なものではなく、日時になってきた。旅の目的地として好きだった場所が、日常になるのも、おかしな感覚だった。

帰り道、葉山の森度海岸で、ビールを片手に、女将のことを考えた。女将は果たして本当に来てくれるのだろうか。日が暮れてからそのことで頭がいっぱいだった。でも、信じることにした。いま私に必要なのは、自分の未来を信じることだった。信じよう。