音楽の旅① 「父と私」

音楽について振り返るとき、最初に必ず父が浮かんでくる。

父は、ずっとジャズを聴いていた。沙羅双樹の下でお釈迦様が寝ていたポーズで。部屋でひとりジャズの世界に浸っていた。

とジャズ

父は、ジャズを聴くのが苦しいと話していた。全共闘の終焉時代、京都で学生運動の真っ只中にいた父は、ずっぽりジャズ喫茶にハマっていた。当時のスノッブ(父はよくこの言葉をつかっていた)は、教養としてのジャズを好んでいた。知識としてジャズを聴いていたから、苦しかったのだろう。

驚くのは、当時のジャズ評論家を名乗る人たちの文章は、ものすごく上から目線で、自分の主観を押し付けている。もうちょっと優しく書けないんかなあ、と父がコレクションしていた本を読みながら感じていた。

父の世代のジャズ好きは、ロバート・グラスパーを聴かないだろうし、ジャズとも思わないだろう。ロバート・グラスパーは連綿たるジャズの歴史の最新の位置にいて、彼を起点に新しい流れが起き始めている。思考を柔軟にすれば、たくさんの楽しみを得ることができる。

音楽はたくさんの人をひとつにする力がある。知識が弊害になることだってある。父は広範な知識を持ちつつも、決めつけが多かった。だが、そんな父と音楽について話をするのが好きだった。

父が本に書いていることを重視し、いわゆる名盤を好んでいたことに反発して、私は誰も聴いたことのない音楽を探すようになっていた。もともと人と同じことがしたくない性分もあった。17歳のころ、岡山のグルーヴィンというレコ屋でロシアのジャズコンピのレコードを買ったが、少々ひねくれていたのかもしれない。まず、素直にマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンの音に耳を傾けてもよかっただろう。

豊かな感性を持っていた父にとって、音楽は生活に必要なものだった。大人になってから、父同様に自分が繊細な心だということに気づいたが、私にとってもまた音楽は生活に欠かせないないものになった。音楽は水のようだった。父と対照的に、強い心を持っていた母は、そのことは理解できなかった。

音楽を聴かなくていい友達が不思議だった。なぜ音楽を聴かなくてもいい人がいるのだろう? 三ノ宮の路上でLiveをよくしていた友達は、街を観察してこう言った。路上でライブをしていても、なかなか興味を持ってもらえない。イヤホンをしている人も少ない。誰しもが、喉が渇いたら水を飲むように、音楽を欲しているわけではなかった。

18歳のとき、クラブに行くまで、自分が聴いていたような音楽を聴く人に出会うことはなかった。音楽を通して多くの友達ができたことが、私にとっての幸運だった。DJを通して、同じ空間に同じ人が同じ曲を聴く。父は孤独に音楽と接していたが、私は音楽を通して人と通じることができた。

そんな父を私は愛していたし、私も愛されていたと思う。間違いなく、父によって私の音楽観の下地は形成された。小学生のころ、テレビでアニメを観ている横で、大音量でフリージャズを聴いていた父。もしかして誰かと一緒に音楽を聴きたかったのかもしれない。

おとどし亡くなった父は、最期に幸せだったと母に言い遺していた。私もこれから、私の家族を作って、悔いのない人生を生きる。女将も、音楽を演奏する人だ。

ありがとう、お父さん。これからお父さんの分まで、音楽を聴いていくよ。苦しく聴くんじゃなく、楽しんで聴く。