湘南移住記 第二十六話 「妙本寺」

妙本寺はコバカバの裏手、小町の住宅街の奥にあった。鎌倉時代、北条氏と台頭し、滅ぼされた比企能員一族の屋敷があった寺である。鎌倉の大仏などと比べて知名度の低いスポット。コバカバのご主人は鎌倉の裏名所を教えたいという意図だった。私も多数の観光客が訪れるところは行きたくない。地元の人のみ知るスポットを教えてもらうのは嬉しかった。

去年に神戸に遊びに行った時。大丸の裏手にある〈Blue Bottle Coffee〉にコーヒーを飲みに行った。神戸のブルーボトルコーヒーは禅の価値観を持ち込んだ、ミニマルな店づくりをしていて、とても好きなコーヒーショップのひとつ。季節ごとに変わるブレンドもいい。店内を見渡すと、白いひらひらしたワンピースを着た神戸女子が多い。店内に1人、目を引くような真っ赤なシャツを着ていたのが女将だった。神戸のさらっとした空気感は、女将の感性と食い違うだろうな、と感じた。

今回の旅は、単なる観光ではなく、生活の視点を得るというのも目的だ。女将に楽しんでもらいたいというのもあるが、空気感が肌に合うかどうか。そこが合わなければ、住むのも大変になってくる。

なので今回は、移住先の候補から神戸を外している。

物件を検索してみると、かなり家賃が安くなっていた。特に垂水、長田にあたり。街そのものが詩情に溢れた塩屋も魅力的だ。関西圏では、川西市、箕面、京都が気になる。湘南の家賃相場からすると、相対的に安いというのが体感である。

雨の鎌倉

冷たい小雨が降り続ける。朝8時の鎌倉。人はまばら。通勤や通学の人たちがちらほら歩いてる。

グーグルストリートビューで何回のぞいただろうか。だが今、実際に鎌倉に立っている。ここまで来るのも大変だった。苦労も含めて望外の喜び、というやつだ。

3年前に1人で来て、いつか必ず住む、と心に決めた。そして今現在。女将を連れて、あの日の望みが叶おうとしている。人生の糸はつながっている。

3年前来た時は、物語の中にいるみたいな感覚だった。今回はそれがあまりなかった。暮らすとなるとリアルが見えて来るからだろうか。ベストな時期を外したからか。物語感がないことが、いいことか悪いことかわからない。

妙本寺に向かう途中、レンバイをのぞく。隣に生活用品を売る小さな店があって、おっちゃんがシャッターを開けるところだった。その右奥に薄暗い通りがある。通りの中に、吉田省吾に教えてもらった、〈PARADISE ALLEY BREAD & CO. 〉というパン屋を見つけた。

このアート感よ

美咲町でアートをしている楽餓鬼さんみたいな、ドメスティックな世界観の店だった。培養発酵宙造研究所と書いてある。いかにも吉田が好みそうな場所だ。店にはまだオープンしていないのか、誰もいない。だが店の前のショーケースにパンだけ置いてあって、横のカゴに代金を置くシステムだった。ゆるい。鎌倉ってこんなにゆるいのか。ショーケースの下には、CBDチョコレートも売っていた。もうなんか、すごい引力。空間がうねうねしている。300円くらいで、バゲットをひとつ買い求めた。

歩きながらティンパンアレイのパンを食べてみる。比喩ではなく、おもちみたいにずーっとのびる。パン好きな女将もいささか面食らっていた。美味しいのは美味しいのだが、美味しいというよりなにか特別な体験をしたようだった。不思議なパン。

小町の住宅街の裏側、小高い山手を進む。看板に助けられて、妙本寺に辿り着いた。滅ぼされた一族の悲哀、なんていうものはなく、北鎌倉のようにピンと澄んだ空気が張り詰めていた。整えられた緑と、小高い階段。心地いい。勧められた理由がわかった。私たち以外には誰もいない。雨の風情も相まって、静謐さが心地よかった。津山でいうと朝の大隈神社のような雰囲気。

津山の〈Sound Bar Zack〉でお世話になったエイジさんが、人生の岐路に経ったとき、木に触って答えを訊いたことがある、と話していたのを思い出した。神社内に大きな木があって、目を瞑って触ってみた。私は鎌倉に来れますか、と。そうすると、まだ早い。だが、また来なさいと心にメッセージが浮かんできた。浮かんできて、自然と手が離れた。

妙本寺は日蓮宗のお寺で、日蓮上人の大きな像があった。拝んでから、木と同じ質問をすると、同様のメッセージが返ってきた。

もしかすると、まだ鎌倉には住めないかもなと思った。湘南には住めるだろうが。このタイミングで、2人と猫にとって1番いい場所を探そう。何事も順番がある。鎌倉にも住めるかもしれないが、鎌倉にとっていいことをする必要があるだろう。