湘南移住記 第八話 「働くこと、決めること」

「働くことは前を向くこと」。店を閉め、12月に派遣で働き始めたころ、職場の食堂に置いてある自動販売機の缶コーヒーのコピーにそう書いてあった。いつもなら見落とすであろうその一文が、なぜか胸に染みた。店を閉めた悲しさ、寂しさ、原因になったことへの怒り、津山を出ると決めたものの、1から資金を貯めねばならないこと、いざとなった時の不安など、様々な感情が渡来して心の中で解決していかなかれないけなかった。状況はすぐ進展するわけではなくて、一日一日こつこつと貯めていかなければならない。焦っても仕方がない。自分のこの決断をした以上、腹を括らねばならぬ。女将と猫と自分が安心して住める住居を確保する。まずはそこが最優先になった。

左脇腹が痛くなってくるわ、9月ごろ、ストレスが原因で潰瘍性大腸炎を罹患して、その痛みがじんじん戻ってくるわで散々だったが、全て決めた自分が原因。対処していくしかない。移住先で店か起業するにしてもお金はいる。お金を貯めるための衣食住を確保するためにも、またお金が必要だ。痛みを抱えながら働く日々。頭の中の怒りの妄念が大変なことになっていたが、そのうち人のことに構っているより自分と女将と猫の未来について考えることが大切と思えてきた。感情が頭にうずまきながら働く日々の中、もう感謝しかねえなこりゃと想念が変化してきた。

仮に自分がいがり散らしても根本的な問題は解決しない。そう、そこ。問題の根本を考えていくと今津山で店をやって暮らしている家だったりするので、自分が出て行くことが早い。相手をコントロールできないし、変えることはできない。そういう人もいたけど、大抵自分に自信がない人が同様に自信がない人を都合よくコントロールしようとする気持ちの悪いことになるし、巻き込まれたらすっごく摩耗する。人の合わすのもめんどくさくなってきた。話が合わない人や面白く感じない人に時間を費やすのはお互い大いなるロスである。時間は限りがある。ともかく働いてれば状況は前に進むから、深刻になりすぎず日々を送る事にした。

店を休んですぐ、神戸で間借りBARを始めたもとすけという友人から連絡がきて、「無駄なことを削ぎ落としていけば」とアドバイスをもらった。それを実践中の感じがする。この文章もその一巻だ。香草工房の内藤さんにも「書いていかないと」とおっしゃってくれた。hatisはこれからなのに、と言ってもらってる方がいるらしくて、嬉しくて込み上げてきそうになった。そう想ってくれる人がいるだけでありがたい。やってきた甲斐があったのかもしれない。

文章がリフレインしてて付き合ってくださっている皆様には申し訳ないが。しかし店がなくなって直接関わりがなくなった方にも、この文章によってなにかしらいい影響があれば幸いです。

珈琲の実践

前置きが長すぎてしまったがカフェをやっていくのも決断の連続。珈琲ひとつにとっても、自家焙煎で豆を何するか、生豆をどこから仕入れるのか、価格をいくらにするのか、どうやって淹れるのか。どんな風味を出したいのか。今までは言われたことをやるのみだったのだが、店で出す以上決めるのは自分しかいない。私がコーヒーピープルとして未熟で、まだ知識と経験が足りないという前提の上、この一年の実践を記していきます。私の珈琲は、飲んでくださった皆さんと共に作りあげていきました。

まず、自家焙煎でいくことは最初から決めていた。津山内で水路珈琲の竹内さんが焼いた豆を使っているカフェは多く、美味しいことは間違いないので私は味の多様化を目標にした。まだ津山で誰もやってないこと。具体的には、浅煎りの珈琲を出すことにした。トレンドに乗りすぎちゃうんと言われたが、私がエチオピアのイルガチェフィが好きで出したかったというのもある。生意気な意見だけど、スペシャリティの在り方自体には懐疑的で、スペシャリティスペシャリティしてたら限界があるだろうなとは考えていた。とはいえ農園指定はいいことで、努力されている農園に直接的な支援ができる。例えるなら久米南に住んでいる飯田さんの米だから買う、といった感じである。

最初はバンコク珈琲さんから生豆を仕入れていた。コモディティのグアテマラ、コロンビアを使用。趣味でやっていた手網焙煎でやってみる。とにかく最初は無我夢中。出すことに精一杯で美味しいかどうかわからなかった。いまにして思えば焼きムラも酷くてよく出せてたなと思う。最初の一歩だし、それが大切か。だがしかし対価と時間を使って飲みに来て抱いている以上、最高のものをお出ししなければならない。とにかく毎日焼いて上達あるのみ。最初はグアテマラの浅煎り〜中煎りをだしていた。お茶みたいな珈琲を表現しようと思ったが、酸味があるだけで駄目なお客さんもいた。浅煎りを定着させたかったが、お客さんの嗜好傾向が全体的に中深だった。津山のお客さんに合わせて深くしていくと、ふと都会からきたお客さんには「濃いっ」と言われたりする。合わせすぎず、自分の芯を貫き通す必要があった。