「ウラァー」とニーチェとJames BRAWN の構造的類似性

詩の朗読会で発表された詩のひとつを掲載します。仏猿さんによる詩です。

「ウラァー」とニーチェとJames BRAWN の構造的類似性

僕はよく奇声をあげる

“奇声”とは爆発である・・・

どうしようもない、

デタラメな引用でこっぱずかしい。

でも、こんな引用ももしかしたら悪くない気もするので、

その言い訳としてこの詩を書く

ファンクとは、たった一小節の素敵なグルーヴの反復と叫び声からなる音楽で、

ジェームスブラウンが、当時のアメリカの黒人に対する理不尽な差別と、白い粉の助けを借りて発明した音楽だ。

ぼくには、自分がした小さな嫌なことやほんの少しの良かったことが、何度も不意に脳内で再現され、ループすることがある。

時にそれは、

大昔の記憶だったりするが、最近の

似たような恥ずかしい経験と結びついたりもする。

そうした記憶のループや化学反応が、ぼくの精神的許容量を超えたとき、「うらぁー」などと奇声を発している。

ファンクもまた、もしかすると、そうした負の記憶の無限ループと許容限度を超えた時の奇声によって誕生した、と仮定しよう。

何度も執拗にループされるグルーヴと、その間に唐突に挟み込まれる奇声がつくるこの芸術は、ニーチェの永劫回帰にもつながる。

つまり、こういうことだ。

たった一小節だけの素敵な経験は、

それだけで十分に美しい音楽になりうるし、

それを何時間でも楽しく演奏し続けられる、

ことをJBは示してみせた。

要するに、

どんな一瞬も常に、こことつながっているし、

永遠に再生可能である。

そして、そう考えることは、今-ここの、この瞬間を生きる勇気にもなりうる。

かつてのどうしようもない失敗を無限再生してできる音楽。

かつての本当に小さな自己中的な栄光を無限再生してできる音楽。

それが、ファンクとニーチェの構造的類似性であり、ぼくやみんなの奇声の正体でもある。

「ウラァー!」

仏猿