ずっと欲しかった須賀敦子の「遠い朝の本たち」を六甲の古本市で買った。読む本の幅を広げよう、と書評本を探していた。もしくは、読書記。好きな作家である須賀敦子がこのタイトルを出していると知り、欲しかったものだ。図書館で見かけても借りなかった。手元に置いて、ゆっくり読みたかった。
昔は音楽のディスクガイドが好きで、よく読んでいた。実物を買ったことは少ない。音楽の情報が欲しかったではなく、実物のない音楽が文字になったものが読みたかったのかもしれない。これはどうこう言う作品でアルバムが作った別の人が訳知り顔で評している。どんな作品かを想像する。で、自分の中では何か聴いた気になって終わっていた。今ではストリミーングサービスですぐ聴けてしまうので、どんなアルバムかを想像するヒマがない。もちろん、聴く量が多くなるので、その人の耳は肥えるだろう。でも、人生が豊かになるとは、また別のとこな気がする。 私は本を読むのが好きだが、どうも集中力がない。読書筋肉が少ない。読んでいてすぐ自分の悩みを考えてしまったり、アイフォーンで検索行動をしてしまう。そこで身になる読書ってなんだろうとずっと考えている。単に知識を増やすなら検索をかけ続けた方が効率がいい。ではなぜ人は読書をするのか。児玉清の本に「いい文章を読むと心のどこかが耕され、豊かになる」とあり、それを指標としてきた。でも少しぼんやりぬ読みすぎた気がする。惹きつけられる文章は集中できるが、それ以外はあんまり。音楽もながらで聴くけど、意識を集中して聴いたら豊かに聴こえる。この差は、意識を持っていけるか。
文章のもつすべての次元を、ほとんど、肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り込んでしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶんおなじてはないのだ。
幼いときの読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけど、アンの文章はあのときの私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいかもしれない。
須賀敦子がアン•リンドバーグを読んだときの感想。そう、やっぱり自分に残っている本って、何がよかったか説明しきれないとこがある。頭ではなく、心のどこかにささるもの。それが血肉になる、ということかな。
音楽批評が好きでなくなったのは、音楽を頭で理解しようとする人が多いから、いやになってしまった。訳知り顔で断じていると音楽の本質から離れていってしまう気がしてならない。
このアンの書評に続いて、「海の贈り物」という本が出てきた。昔、リサイクルショップでタダでなんとなく持ち帰ってみたものの、しょうもなさそうだなと読んでなかった。ここでリンクするとは、大事に読んでおけば良かった。
価値があるとされている本だけではなく、自分の魂にひっかかる本を直感で手に取ることができれば、人生をよりよいものにできる。文中にあるが、本と距離をもつ技を身につけて、どういうことかを考える。感じとる。それが読書の時間を大切にすることだ。