原因は自分のなさ、だと思う。伊坂幸太郎の短編集『ジャイロスコープ』に収録されている『2月下旬から3月下旬』を読んでそう考えていました。母親に抑圧され、自分の意見を言わず、遠慮しながら育ってきた男性が、入院した母親を世話をしながら幻覚を見る話。抑圧された子供は、不安定な部分を持ちながら生きねばなりません。男性は老人を騙す営業の仕事をしながら、幼馴染の幻覚を見続けます。
最後まで読み切っても、どこからが幻覚でどこからか現実かが区別がつきません。まるでLSDのトリップのようです。トリップの途中も、自分がトリップ中なのか現実なのかわからなくなると怖そうですね。夢も似ています。どんなバカげたシチュエーションでも見てる時は現実です。起きたら夢だと気づくけど。現実でも、自分の思い込みから解放された時、なんてことを考えていたんだとハッと気づきます。大事なのは客観性ですね。
親に見捨てられたくなく、気に入られようとすると無意識に自分の意見を捨てたりします。私自身もそういうとこがあるし、類は友を呼ぶのか、私の友人もそういう人がいる。抑圧されてるのでものすごいストレスがある。ただ、生きていると自分で選択せざるを得なくなります。選択の正解不正解はその時々で変わるし、絶対的ではありません。例え間違った選択をしたとしても、学びが必ずそこにある。なので意思を以って後悔しないことが重要です。
しまった、こういう自己啓発的な文章を書くつもりではなかった。自己啓発でさえなく、基本的なところですよね。
両親の性格が問題だったのか、原因はいくつかあると思いますが、意思がない人、目的を持てない人は多数いると思います。言われたことはできるが、自発的に動けない人。大げさにいうと、人生の動機を見出せない人。多くの人は、空気を読むことにエネルギーを使い、自分の意見を述べることを良しとしません。そもそも、自分がどれかわからない前に、ないのかもしれない。
EVAの庵野監督がどこかで語っていましたが、オウム真理教に共感できる部分があると発言していました。オウム真理教に入っていたインテリ層の人たちは、能力がありながらも、どういう風に生きていいかわからず、あんな事件を起こしてしまったと。少し前にイスラム国に入ろうとした大学生がいましたが(彼はいま現在どうなっているのでしょう?)似たようななもんだと思います、たぶん。高いものつくりの力を持ちながら、なにをつくっていいかわからず、電子機器の部門で他の国と穴に開けられている日本の状況に似ていますね。ムダな機能つけすぎ、みたいな。
坂本慎太郎、Setter
そういう所在のなさを表現する音楽は多数あります。磯部涼氏の『音楽が終わって、人生が始まる』に坂本慎太郎の記事がありますが、彼もリンクしていると思います。
幽霊の気分で、何をしよう。何になろう?自分のなさの心地よさというのもあるかもしれませんね。
あの世でみんななにしてるかな?
また昔のこと 忘れてゆく
ひとりぽっちだったこともあるけど
その都度 好きなこ いた気がする
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最近発見した、Setterという宅録のアーティストにも同じものを感じました。
sittingbythechurchwithdanに掲載された、彼へのインタビューも興味深いです。
アルバムを聴いているとSetterさんはどこか居心地が悪そうで、表面的にはメジャーキーで明るい曲でも憂いを帯びている気がして、そういうのはやっぱりSetterさんが置かれている環境であるとか、音楽の現場に身を投じたいのにできない、ということから来る部分っていうのは大きいんでしょうね。
この、 「居心地の悪さ」というのが作用しているんでしょうね。幻覚に。心地のいい場所をひたすら夢想しているような。昼休みにうたたねしているような。まー大人なんで生きねば仕事せにゃ、といった感じですが、たまにアンビエントな感覚に身をまかせるのもいいかもしれません。あ、でもLSDに手を出してはダメですよ。やったことないからわからんけど。